『さようなら、オレンジ』(岩城けい)_書評という名の読書感想文

『さようなら、オレンジ』岩城 けい ちくま文庫 2015年9月10日第一刷


さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

 

オーストラリアに流れてきたアフリカ難民サリマは、精肉作業場で働きつつ二人の息子を育てている。母語の読み書きすらままならない彼女は、職業訓練校で英語を学びはじめる。そこには、自分の夢をあきらめ夫について渡豪した日本人女性「ハリネズミ」との出会いが待っていた。人間としての尊厳と〈言葉〉を取り戻し異郷で逞しく生きる主人公の姿を描いて、大きな感動をよんだ話題作。(ちくま文庫解説より)

これはきっと自分の心を深く揺さぶる本になるにちがいない - 読む前からそんなふうに感じさせる本がある - 『九年前の祈り』で芥川賞作家となった小野正嗣が書く解説は、こんな文章から始まります。では、実際にどれくらいの評価だったのかと言いますと、

もちろん賞だけが全てではありませんが - 第8回大江健三郎賞受賞、第29回太宰治賞受賞、第150回芥川賞候補、2014年本屋大賞第4位、キノベス! 2014年第2位 - と錚々たるラインナップで、質の高さが分かろうかというものです。

物語の冒頭、おそらく多くの読者がそう感じるであろう、(この小説を象徴する)最も印象的なシーンがあります。やや朴訥なふうに語られるそれは、アフリカ難民のサリマが置かれた境遇や、彼女の身にふりかかるであろう幾多の困難を想起させて胸が痛くなります。
・・・・・・・・・・
サリマの仕事は夜が明けきらないうちから始まります。仕事が終わり、昼近くに帰宅した彼女は、決まってシャワーを浴びます。それが仕事を始めてからの習慣になっています。

シャワーの中で彼女はよく泣きます。2つの蛇口を同時にひねり、真水と熱湯が溶け合って適温になると、決まって涙が出ます。シャワーを浴びているさなかでさえ、はっきりとそれが涙のあたたかみであると分かります。

なめした革みたいにすべすべした黒い肌。身体の曲線は卵のように無駄がありません。その誇らしい身体を洗い包みながら、彼女はさめざめと泣きます。湯煙の中、泣き声がバスルームの天井にエコーし、白い羽のようにして裸体に舞い落ちると、サリマはさらに大声をあげて泣きます・・・
・・・・・・・・・・
大きな柱になっているのが「言葉」- 言い換えると、自分が生まれ育った国固有の「母語」と、それ以外の「第二言語」(ここでは「英語」がそれに相当します)の間を揺れ惑い格闘する人の様子が描かれています。

サリマは遠くアフリカにある母国の内戦を逃れ、たまたまオーストラリアという「大きな島」へ行き着いた難民です。幼い2人の息子を抱え、生き延びるためだけに生きてきた彼女は、母語の読み書きさえ覚束ない20代半ばの女性です。

夫には逃げられ、これといった才覚もない彼女は、やっとのことスーパーの食品加工場に雇われて肉の解体作業を担当することになります。女手ひとつで子供を育てながらの日々は大変だったのですが、何より「言葉」を理解しようと、英語を習うことを思い立ちます。

サリマが通う英語教室には、サリマと同じ黒髪の、ハリネズミみたいに硬くてまっすぐな直毛のアジア人がいます。見たままに、サリマは彼女のことを「ハリネズミ」と呼びます。

ハリネズミは、主婦のかたわら英語を学んでいます。字も読めず、帰る故郷もないサリマにとってハリネズミは羨望の的であり、ときに怒りすら覚える存在です。ところが、ある出来事をきっかけに2人の距離は一気に近づくことになります。
・・・・・・・・・・
以上が、この小説の「核」となる部分です。これとは別に、もうひとつの物語 - 小説中では、「恩師に宛てた手紙」という形 - が合間合間に挿入されています。

手紙の書き手の「私」は、(これも何度か合間に差し挟まれるメール文から察するに)「イトウサユリ」という日本人女性。対して、受け手は「ジョーンズ先生」という、おそらくは「イトウサユリ」なる女性がかつて小説などの創作を学んでいた教師です。

「私」は「英語」で小説を書こうとしているのですが、うまくいかずに書きあぐねています。大学で働く夫の都合で渡豪し、生まれたての娘と暮らす「私」もまた孤独です。自分の夢を諦められず、さらに英語に磨きをかけようと、娘を預けて英語教室に通っています。

ところが、「私」に予期せぬ不幸が訪れます。打ちのめされ、立ち直ろうと働き始めた職場で再会したのが「ナキチ」- 彼女はアフリカ出身の、かつて通った英語教室のクラスメイトです。

あるとき、そのナキチが「英語」で作文を書きます。自分の出目であるアフリカについて書かれたそれは怖ろしく稚拙なのですが、それにもかかわらず強く「私」の胸を打ちます。文章を目にした「私」は、ようやくにして「書く」ことの意味を理解します。

「ナキチ」とは「サリマ」のことではないのか? - いやいや、そうではないのです。「私」が書く小説のヒロインが「サリマ」で、「ナキチ」がそのモデルになっている - そういうことです。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


さようなら、オレンジ (ちくま文庫)

 

◆岩城 けい
1971年大阪府大阪市生まれ。日本の大学を卒業したあと、単身オーストラリアへ渡る。ニューサウスウエールズ州のヴィジュアルアート科ディプロマを修了。現地で日本人男性と結婚。在豪20年。ビクトリア州在住。(2013年9月現在)

作品 「Masato」

関連記事

『死体でも愛してる』(大石圭)_書評という名の読書感想文

『死体でも愛してる』大石 圭 角川ホラー文庫 2020年8月25日初版 死体でも愛してる (

記事を読む

『最後の命』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『最後の命』中村 文則 講談社文庫 2010年7月15日第一刷 最後の命 (講談社文庫)

記事を読む

『variety[ヴァラエティ]』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『variety[ヴァラエティ]』奥田 英朗 講談社 2016年9月20日第一刷 ヴァラエティ

記事を読む

『1ミリの後悔もない、はずがない』(一木けい)_書評という名の読書感想文

『1ミリの後悔もない、はずがない』一木 けい 新潮文庫 2020年6月1日発行 1ミリの後悔

記事を読む

『花や咲く咲く』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『花や咲く咲く』あさの あつこ 実業之日本社文庫 2016年10月15日初版 花や咲く咲く (実業

記事を読む

『夏目家順路』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『夏目家順路』朝倉 かすみ 文春文庫 2013年4月10日第一刷 夏目家順路  

記事を読む

『自分を好きになる方法』(本谷有希子)_書評という名の読書感想文

『自分を好きになる方法』本谷 有希子 講談社文庫 2016年6月15日第一刷 自分を好きになる

記事を読む

『八月は冷たい城』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『八月は冷たい城』恩田 陸 講談社タイガ 2018年10月22日第一刷 八月は冷たい城 (講

記事を読む

『誰にも書ける一冊の本』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『誰にも書ける一冊の本』荻原 浩 光文社 2011年6月25日初版 誰にも書ける一冊の本 光文

記事を読む

『骨を彩る』(彩瀬まる)_書評という名の読書感想文

『骨を彩る』彩瀬 まる 幻冬舎文庫 2017年2月10日初版 骨を彩る (幻冬舎文庫) 十年

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『ゴースト』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『ゴースト』中島 京子 朝日文庫 2020年11月30日第1刷

『人間タワー』(朝比奈あすか)_書評という名の読書感想文

『人間タワー』朝比奈 あすか 文春文庫 2020年11月10日第1刷

『かか』(宇佐見りん)_書評という名の読書感想文

『かか』宇佐見 りん 河出書房新社 2019年11月30日初版

『希望病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『希望病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2020年11月11日初版

『JR上野駅公園口』(柳美里)_書評という名の読書感想文

『JR上野駅公園口』柳 美里 河出文庫 2017年2月20日初版

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑