『純喫茶』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文

『純喫茶』姫野 カオルコ PHP文芸文庫 2016年3月22日第一刷


純喫茶 (PHP文芸文庫)

 

あれは、そういうことだったのか・・・・。なぜか鮮明に刻まれたこどもの頃の記憶。大人になった今だからこそ、本当の意味に気づくことがある。- 3歳の私は、なぜ欲しくもない「特急こだま号」の玩具をねだったのか。6歳の時の夏休み、「あの崖」の近くで過ごした情景は、たのしい記憶のはずなのになぜ私を苦しくするのか。まだ洗練されていなかった昭和と現在が交錯する短編集。『ちがうもん』を改題。(PHP文芸文庫より)

中にある「みずうみのほとり」という一編。
大人になった主人公の「私」は、あるとき、ある光景を目にしてこんなことを思います。

大きなビルの百貨店かデパートでの話。実年齢は私より上だろう女がふたり石ころ(おそらくは宝飾品の類い)をいじりまわしているのを見て、ふたりは喜々として若い、ふたりは少女のようにあぶらぎっている - と感じます。そして次に、こう続けます。

少女とは、あぶらぎっているものである。少年があぶらぎっているように。なぜ人はこの事実を忘れるのだろう。
少女のころ、少年のころ、疲れをしらぬ肉体に、欲求は全世界に向けて満ちていたではないか。他者を徹底的に意識して、あのころの日々は暮れていたではないか。あぶらぎった、やさしい時期を、なぜ後年には人は、あたかも紅茶かなにかのようにあっさりと澄んでいたと思いちがえて回想したがるのか。ふしぎなことである。

子供だった頃をこんなふうに分析してみせる姫野カオルコの少女の頃とはどんなものだったのでしょう - 「私」がかつて小学3年だった頃(昭和44年とあります)の記憶を綴った箇所があります。

子供のころはいつも犬と田んぼを歩いた。田に稲があるときはあぜみちを、稲の刈り取られた冬には田んぼそのものを。他人の所有地にはちがいないが、子供が犬と歩いていようと叱るものはだれもいなかった。車にぶつかる心配もない、私の整理の場所だった。

(私の)整理の場所?

何のことかと思われるでしょうが、次にあるのが「とりわけ晩秋から冬の田んぼは、切り取られた稲がぷつ、ぷつと並び、それを単純に、ただ単純に順に踏んでいけば、意識がひとつのことからべつのことへ移っていくのに効果的だった」となればどうでしょう。

言われてみれば確かにそんなことでもあったような・・・。しかし、ただのぼんくらだった私などは、そもそも記憶に残るほどの自覚をもってしていたわけではありません。これといって面白いこともないので、仕方なしにそんなことをしていただけのことです。

先生から読みなさいと渡される推薦図書のなかの、午後の紅茶のようにあぶらけのない少年少女たちが、ただの架空の人物であることを、あぶらぎった私も秀子ちゃんも、おそらくまわりのだれもが - よほど自分を騙すのが上手な者以外は - 、よく知っていた。知っていて、異を唱えなかった。架空のなかのことは架空のなかのことだと、小学校3年ならばもう心得ていたからである。それほど、あぶらっこく旺盛に暮らしていたのである。

これは何となくわかる気がします。子供といえども分別のしどころがどこかくらいはとうに弁えており、一から十まで大人の言い分を真に受けていたわけではないということ。大抵(の子供)はそうしたものだということです。

繰り返し「あぶらぎった」という言葉が出てきますが、言いたいのはそのことではありません。子供時代の記憶が思いのほか大人になった今も頭から離れず、鮮やかなままで消えてなくならないのが時に苦しいと感じるようなことはありませんか、ということが書いてあります。

さて、ここまでは「みずうみのほとり」という短編のごく一部で、物語の中心はこの外にあります。

そこではかつてのあぶらぎった子供の「私」には理解できなかった心の揺らぎを、はからずも大人になった「私」が気付くことになるのですが、幸か不幸か、そのとき「私」は随分と枯れた風情になり果てています。

基本他者には無関心で、(物欲や性欲といった)人の持つ欲を失くしています。自分からはやさしさがそげ落ちていると思い、身にまといつくものの総量を極力少なくしたいと思っています。そしてそんな自分の欲求のなさを、ほとんど怖れてもいるのです。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


純喫茶 (PHP文芸文庫)

 

◆姫野 カオルコ
1958年滋賀県甲賀市生まれ。
青山学院大学文学部日本文学科卒業。

作品 「ひと呼んでミツコ」「受難」「ツ、イ、ラ、ク」「ハルカ・エイティ」「リアル・シンデレラ」「昭和の犬」「部長と池袋」他多数

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