『切羽へ』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『切羽へ』井上 荒野 新潮文庫 2010年11月1日発行


切羽へ (新潮文庫)

 

かつて炭鉱で栄えた離島で、小学校の養護教諭であるセイは、画家の夫と暮らしている。奔放な同僚の女教師、島の主のような老婆、無邪気な子供たち。平穏で満ち足りた日々。ある日新任教師として赴任してきた石和の存在が、セイの心を揺さぶる。彼に惹かれていく - 夫を愛しているのに。もうその先がない「切羽」へ向かって。直木賞を受賞した繊細で官能的な大人のための恋愛長編。(新潮文庫より)

参りました。書き出してはみるのですが、その都度行き詰ってどうにも先に進みません。粘りに粘って、二日半経ってこのざまです。思うに、山田詠美が書いた解説を読んだのがまずかった。あんなのを読んでしまったら誰だって書けなくなるのです。

そもそも解説しているのが山田詠美であることが何よりこの小説の「品格」を証明しているのですが、それにしてもうますぎます。書いてあることの一々が適確で、胸がすくようで、これ以上何を語ることがあるかというような解説であるわけです。

何か他に足すことがないかと思ってはみるのですが、気が付けばなぞってばかりいるような文章になっています。そんなことならいっそのこと書かずにおいて、文庫にある解説を読んでくださいという方が良いのではないか - 半ば開き直りのようではありますが、確かにそう思ったのです。

言うまでもなくこの小説は、ならぬ関係の男女が織りなす恋愛の兆しを描いて秀逸なわけですが、恋に落ちる時のめくるめくような思いは何ひとつ描かれてはいません。

その代わりに、二人の通じ合う際の何気ない所作が丹精を凝らして選び抜かれており、それは性よりも性的な男と女のやり取りとして必ずや読む者をハラハラとも、ドキドキともさせるに相違ありません。

つまりは、山田詠美が作者である井上荒野の真骨頂とみるのは、全編に渡って「書くより書かないことの大切さが伝わって来る」ということ。

行間を読ませるというような短絡的な技巧とは違い、書いた言葉によって書かない部分をより豊饒な言葉で埋め尽くす才能に長けた人こそが井上荒野で、切羽という言葉に込められた思いの多くは言外にて推し測るべしということです。

そうして書き上げられた傑作『切羽へ』を味わう時、人は自らの内なる「切羽」の在り処に思い当たり、涙ぐみたくなるだろうと言います。もう、空も海も青いだけじゃない。そう改めて気付かされて、甘い諦めに心を浸すことだろうと言うのです。

※ 切羽とは、トンネル工事または鉱石、石炭などを採掘する構内作業の現場を指して使われる言葉です。この素っ気ない言葉がどのような意味合いをもって物語に登場するかは、ぜひ御自身で確かめてください。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


切羽へ (新潮文庫)

 

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「わたしのヌレエフ」「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「もう切るわ」「しかたのない水」「ベーコン」「夜を着る」「雉猫心中」「リストランテ アモーレ」「結婚」他多数

関連記事

『悪い恋人』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『悪い恋人』井上 荒野 朝日文庫 2018年7月30日第一刷 悪い恋人 (朝日文庫) 恋

記事を読む

『向田理髪店』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『向田理髪店』奥田 英朗 光文社 2016年4月20日初版 向田理髪店  

記事を読む

『死んでいない者』(滝口悠生)_書評という名の読書感想文

『死んでいない者』滝口 悠生 文芸春秋 2016年1月30日初版 死んでいない者 &nb

記事を読む

『木洩れ日に泳ぐ魚』(恩田陸)_書評という名の読書感想文

『木洩れ日に泳ぐ魚』恩田 陸 文春文庫 2010年11月10日第一刷 木洩れ日に泳ぐ魚 (文春

記事を読む

『殺戮にいたる病』(我孫子武丸)_書評という名の読書感想文

『殺戮にいたる病』我孫子 武丸 講談社文庫 2013年10月13日第一刷 新装版 殺戮にいたる

記事を読む

『すべて真夜中の恋人たち』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『すべて真夜中の恋人たち』川上 未映子 講談社文庫 2014年10月15日第一刷 すべて真夜中

記事を読む

『水声』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『水声』川上 弘美 文春文庫 2017年7月10日第一刷 水声 (文春文庫) 1996年、わ

記事を読む

『4TEEN/フォーティーン』(石田衣良)_書評という名の読書感想文

『4TEEN/フォーティーン』石田 衣良 新潮文庫 2005年12月1日発行 4TEEN (新

記事を読む

『砂上』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文 

『砂上』桜木 紫乃 角川文庫 2020年7月25日初版 砂上 (角川文庫) 「あなた、

記事を読む

『1ミリの後悔もない、はずがない』(一木けい)_書評という名の読書感想文

『1ミリの後悔もない、はずがない』一木 けい 新潮文庫 2020年6月1日発行 1ミリの後悔

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

『毒母ですが、なにか』(山口恵以子)_書評という名の読書感想文

『毒母ですが、なにか』山口 恵以子 新潮文庫 2020年9月1日発行

『物語が、始まる』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『物語が、始まる』川上 弘美 中公文庫 2012年4月20日9刷

『魯肉飯のさえずり』(温又柔)_書評という名の読書感想文

『魯肉飯のさえずり』温 又柔 中央公論新社 2020年8月25日初版

『理系。』(川村元気)_書評という名の読書感想文

『理系。』川村 元気 文春文庫 2020年9月10日第1刷 理

『樽とタタン』(中島京子)_書評という名の読書感想文

『樽とタタン』中島 京子 新潮文庫 2020年9月1日発行 樽

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑