『泡沫日記』(酒井順子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『泡沫日記』(酒井順子), 作家別(さ行), 書評(は行), 酒井順子

『泡沫日記』酒井 順子 集英社文庫 2016年6月30日第一刷

初体験。それは若者だけのものではなく、中年期は〈初体験ラッシュの第2ステージ〉なのだ。自分の心身の衰えのみならず、親の死、祖母の介護など老いにまつわるものから、初めて行く国、初めて乗る列車、EXILEのコンサートなど未知の世界が広がるものまで。そして、あの東日本大震災と、その後の日々・・・・。次々起きる初体験に戸惑いながら対応し、順応していく日々の日記風共感エッセイ。(集英社文庫より)

ささやかながら、親に隠れてこっそりとする初めての悪事。思いを寄せる(か否かはこの際どうでもいいのですが)異性との、あんなことやこんなこと。思い出すだけで叫び出しそうになる恥ずかしすぎる記憶の数々・・・・

この、一見日記風に綴られているエッセイは、同じ「初体験」でもこの世に生を受けてから一端の大人に成長するまでの間、いわば人生の第1ステージで経験するそれではなくて、

気付けば人生の折り返し点を迎え、否応なく人の生き死にや自らの終末を意識し始めるような年齢になって味わう、(それまでは気にもかけなかった)また別の「初体験」のあれやこれやが、ちょうどいい頃合いの軽さでもって語られています。

若い人ならいざ知らず、中年期を過ぎたあたりの貴方なら必ず思いあたることがあるはずです。「こんなことならもっと早くに読んでおけばよかった」- 今まで知らずいたことが何だか損をしたような、そんな感じがする久方ぶりの本です。

人生の後半に待ち構えている様々な初体験 - 思えば人生は片道切符で、どこまで行っても慣れるなどということはないのが道理で、歳を取っても尚それまでは思いもよらなかった出来事に遭遇しては、一々立往生してしまう。

その時々の心情を正直に白状すれば、実のところは若かった頃とたいして違わない、いささか頼りないものでしかありません。

子供の頃、中年という人々は何に対しても動じない、何にでも慣れた人達であると思っていましたが、自分が中年になってみると、初めて出会う事物にいちいち驚き、びくびくし、また喜んだり悲しんだりしているではありませんか。(「はじめに」より抜粋)

中年は中年という状態にまた不慣れで、やっと慣れてきたと思える頃には、もう老年の域にさしかかっているのではないか - 著者である酒井順子はそう言います。

人生後半の初体験は、当然のこと老いや死と緊密な関係を持っており、成長に伴う初体験ではなく、退化とともにある初体験であったりし、そういった初体験を積み重ねることによって、人は自らの死を迎え入れる準備をしていくのでしょう、と言います。

そして、既に(著者である)私は「これが自分にとって初めての体験であったか否か」が判然としなくなっていることにも気付きます。初めて来た場所だと思い込んで旅をしていても、ある瞬間に「ここ、前にも来たことある! 」と突然思い出したりするわけです。

悲しいかな、もはやそれはデジャビュなどというものではなく、単に「かつて来たことを忘れていた」というだけのこと。最近では、「はじめまして」という言葉を自らに禁じているとも言います。うかつに言うと、以前にも会ったことがありますよと言われてしまうことが頻繁に起こるようになったからだと言うのです。

しかし、それはまた考え様によっては「二度目の初体験」をしたとも言え、ちょっと得をした気分になる・・・・と思えば思えなくもないわけですが、いずれにせよ、初体験というのは手に入れた途端にパチンと消えてしまう泡のようなものだと言います。

いくらきれいであっても、その泡をずっととっておくことはできないし、本当の「初めて」は、ただの一度だけ。

人が生まれたり死んだりするのを繰り返し見ていると、人生というものもまた泡のようなものだと思えてくるのであって、そんなアワアワした日々の記録をとどめておこうという気持ちもまた、泡のようなもの -「はじめに」と題した文章は、そんなふうに結ばれています。

※ 全部で25の話があって、最後に「あとがき」があります。どこから読んでも面白いのですが、まずは最初の「ガードル」と題した一文を読んでみてください。いきなり「ガードルをもらった」という文章から始まるのですが、ここを読めば必ずや次が読みたくなります。

東日本大震災が発生した、まさにその時の東京の様子が綴られています。世紀の大災害を前にしても何事も為せないちっぽけな一人の人間、それでも何かをせずにはおけない著者の心の様子が実に正直に語られています。ぜひとも読んでみてください。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆酒井 順子
1966年東京都生まれ。
立教大学社会学部卒業。

作品 「負け犬の遠吠え」「儒教と負け犬」「おばさん未満」「ユーミンの罪」「地震と独身」他多数

関連記事

『火のないところに煙は』(芦沢央)_絶対に疑ってはいけない。

『火のないところに煙は』芦沢 央 新潮社 2019年1月25日8刷 「神楽坂を舞台

記事を読む

『はんぷくするもの』(日上秀之)_書評という名の読書感想文

『はんぷくするもの』日上 秀之 河出書房新社 2018年11月20日初版 すべてを

記事を読む

『妻籠め』(佐藤洋二郎)_書評という名の読書感想文

『妻籠め』佐藤 洋二郎 小学館文庫 2018年10月10日初版 父を亡くし、少年の頃の怪我がもとで

記事を読む

『草にすわる』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『草にすわる』白石 一文 文春文庫 2021年1月10日第1刷 一度倒れた人間が、

記事を読む

『ふたりの距離の概算』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『ふたりの距離の概算』米澤 穂信 角川文庫 2012年6月25日初版 春を迎え高校2年生となっ

記事を読む

『世界でいちばん透きとおった物語』(杉井光)_書評という名の読書感想文

『世界でいちばん透きとおった物語』杉井 光 新潮文庫 2023年7月15日 9刷

記事を読む

『BUTTER』(柚木麻子)_梶井真奈子、通称カジマナという女

『BUTTER』柚木 麻子 新潮文庫 2020年2月1日発行 木嶋佳苗事件から8年

記事を読む

『バールの正しい使い方』(青本雪平)_書評という名の読書感想文

『バールの正しい使い方』青本 雪平 徳間書店 2022年12月31日初刷 僕たちは

記事を読む

『浮遊霊ブラジル』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『浮遊霊ブラジル』津村 記久子 文芸春秋 2016年10月20日第一刷 「給水塔と亀」(2013

記事を読む

『ハリガネムシ』(吉村萬壱)_書評という名の読書感想文

『ハリガネムシ』吉村 萬壱 文芸春秋 2003年8月31日第一刷 ボップ調の明るい装丁から受ける

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『僕の神様』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『僕の神様』芦沢 央 角川文庫 2024年2月25日 初版発行

『存在のすべてを』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『存在のすべてを』塩田 武士 朝日新聞出版 2024年2月15日第5

『我が産声を聞きに』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『我が産声を聞きに』白石 一文 講談社文庫 2024年2月15日 第

『朱色の化身』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『朱色の化身』塩田 武士 講談社文庫 2024年2月15日第1刷発行

『あなたが殺したのは誰』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『あなたが殺したのは誰』まさき としか 小学館文庫 2024年2月1

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑