『浮遊霊ブラジル』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『浮遊霊ブラジル』津村 記久子 文芸春秋 2016年10月20日第一刷


浮遊霊ブラジル

「給水塔と亀」(2013年川端康成文学賞受賞作)

おそらくはこの本の中で一番地味な話。大した起伏もなく、何事もないような感じで終わります。定年を迎えて無職になった一人暮らしの男が故郷に戻り、昔見た風景を懐かしみ、借りたアパートで孤独死した前の住人が飼っていた亀を預かるという話なのですが、これはと思うほどのことは何ひとつ起こりません。

彼が通った小学校はまだあり(もちろん以前のような木造ではなくコンクリートの造りに建て替えられています)、寺の前にあったうどんの製麺所も(規模は縮小したような気はするものの)なくなってはいないことに驚いたりします。

店らしきものは駅の前にコンビニが一軒、あとは国道沿いにチェーンの大きな本屋があり、ホームセンターとスーパーがあります。それ以外は何もなく、畑や民家のほかには大きな看板ばかりが目立ちます。

国道沿いを歩いてアパートのある海側に続く道を下ると、(駅から少し離れてきたからか)更に畑が目立ち始めます。彼が以前住んでいた時のままではないのですが、まだその半分ほどは残っていることにまた驚いたりします。

給水塔があったのだ - 彼はそう思い出すのですが、どこにあったのかが思い出せません。畑の中だったか、誰かの家の敷地の中だったか。美しい水色に塗装され、小学校よりも背の高いその威容に惹かれて、友達と遊ぶ合間に、目を盗んでいつも見上げていた塔です。

通販で買ったクロスバイクがアパートに届きます。「あんた変わってるわ」「前の住人さんもちょっと変だった、あんたと同じように独り者でね」- 彼よりは少し年下と思われる中年女性の管理人は、彼に向かってそんなことを言います。

おばあさんだった。のよさんっていうのよ、女の名前の最後に付く乃と代で乃代。乃代さんは、このアパートの部屋で心不全で亡くなる前日まで、スーパーの中にある衣服修理のスペースで働いていたのだといいます。

遺言もわかりやすいところにあったし、私物の処分もスムーズだったが - ただ、亀なんか飼っててさ、これが困って。死ぬ二か月前とかに飼い始めちゃったから、遺言にもなくて。あたしの部屋にいるんだけど、見ていく? - と、そんなことを言います。
・・・・・・・・・
彼はこの後管理人に「乃代さんといいあんたといい、どうして一人でいられるの? 」などと訊かれたりします。この時彼が一番したかったのはクロスバイクに乗ることで、クロスバイクに跨ってスーパーへ行き、冷えたビール(琥珀エビス)を買うことでした。

彼はビールが飲みたくて仕方なかったのです。ひとまずビールを買ってすっきりすると、アパートに戻り、管理人の部屋のインターホンを押します。亀を預かります、と告げると、彼女は、そうなの、と無表情にうなづいて、小さな水槽を持ってきます。

なんで引き取る気になったの? と訊かれたので、(何でも疑問に思う人だなあと少し呆れながら)あき竹城がテレビで亀を飼っているという話をしてて、私も欲しいなと思っていたんですよと思い付きで答えると、管理人は、ふ、と暗く笑ったのでした。

ベランダから探していた給水塔が見え、夕焼けでまだらに染まった海が見えます。細い鉄骨で繊細に組まれた給水塔は畑の中に建っており、それを眺めながら彼はビールの缶を開け口をつけると、体じゅうの細胞がわななくほどにうまく感じるのでした。

帰ってきた、と思う。この風景の中に。私が見ていたものの中に。

再びビールの缶に口をつけると、亀が水槽の中で身じろいで、砂利がかすかな音を立てます。袋を開けて水茄子をひと齧りし、忘れていたことを思い出します。

履歴書を書くのだった。寺の前のうどんの製麺所に。明日またスーパーに行って履歴書を買おうと思った。今度は午前中に、自転車に乗って。 きっと心地良いだろう。

他に「うどん屋のジェンダー、またはコルネさん」「アイトール・ベラスコの新しい妻」「地獄」「運命」「個性」「浮遊霊ブラジル」と6編あります。

最も津村記久子らしいと思うのは「アイトール・ベラスコの新しい妻」という作品で、私はこれが一番好きです。二番目が「給水塔と亀」。巷では「地獄」や「運命」の評判が良いらしい。どれもが読みやすく、すぐに読めてもったいないくらいです。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


浮遊霊ブラジル

 

◆津村 記久子
1978年大阪府大阪市生まれ。
大谷大学文学部国際文化学科卒業。

作品 「まともな家の子供はいない」「君は永遠にそいつらより若い」「ポトスライムの舟」「ワーカーズ・ダイジェスト」「カソウスキの行方」「ミュージック・ブレス・ユー!! 」「とにかくうちに帰ります」「婚礼、葬礼、その他」他多数

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