『トワイライトシャッフル』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『トワイライトシャッフル』乙川 優三郎 新潮文庫 2017年1月1日発行

房総半島の海辺にある小さな街で生きる場所を探し、立ちつくす男と女。元海女、異国の女、新築に独り暮らす主婦、孤独なジャズピアニスト。離婚後に癌を発病した女は自分で自分を取り戻す覚悟を決め、ヌードモデルのアルバイトを始めた郵便局の女は、夜の街を疾走する・・・・。しがらみ、未練、思うようにならない人生。それでも人には、一瞬の輝きが訪れる。珠玉としか言いようのない13篇。(新潮文庫)

してきた仕事ということで言うなら、私には自慢できるものなど何一つありません。思いのほか事がうまく運んで、良い成績を挙げたこともあるにはあります。褒められもしましたが、その時は嬉しいというより場違いな感じがして、むしろ恥ずかしかった。

それが自分の実力ではないことを、私自身が一番よく知っていたからです。それでも何とか、(後ろ指を指されぬくらいにはやり抜いて)今があります。贅沢さえしなければ何とかやっていける、長い間生きてきてその程度にはなれました。

後悔はといえば、山ほどあります。が、おそらくそれは違う人生であっても同じようなもので、結局のところ、私は私としてしか生きられない。そう思うのです。

老境を前に、日々言葉にならない感慨にひたるとき、こんな本は一番心に沁みます。何より、この人が書く文章に絆されます。心の襞を掬い取るように言葉を紡ぎ、一々が正鵠を得ており、頷くほかありません。

13ある話のうちのどれがどうというのではなく全部がそうで、文句のつけようがありません。右往左往の果てに、出会うべくして出会った。私にとっては、そんな気さえする本なのです。

私は小説の中に「何が書かれているか」ではなくて「どう書かれているか」に興味がある。小説の魅力とは私にとって、作家の使っている日本語の魅力にほかならない。(中略)乙川優三郎の書く日本語に、私は魅了されつづけている。乙川さんの文章は、折り目の美しい折り鶴のようだと思う。その鶴は羽を広げて、掌の上から飛び立つことができる。空を舞う無数の鶴の姿を目にして、私は打ちのめされる。(小手鞠るいの解説より)

内容は様々なのですが、全体があるトーンに包まれ、長い話を読んでいるようにも感じられます。特に思うのは、為すすべもなくただ粛々と生きるしかなかった、名もなき人に対する慈愛ある眼差し - 乙川優三郎という人は、人と人とを分け隔てしません。

最初にある「イン・ザ・ムーンライト」という話を読んでみてください。今は年老いた二人の元海女の話を読んで、その報われない人生に貴方はきっと心を痛めることでしょう。

「ムーンライター」という話を読んでみてください。もしも貴方が女性なら、貴方は、たとえそれが画家が望むモデルの仕事とはいえ、人前に裸を晒して平気でいることができるでしょうか。家族の不足を補うためとはいえ、人はどこまで自分を犠牲にできるのか。

〈自分一人がそうなる〉ことに、どこまで耐えられるのでしょう。展望は開けず、事態が更に悪化するとき、貴方はきっと逃げ出したくなるはずです。しかし真弓は、時給七千円というチラシに誘われて、裸になるより尚つらい状況でまた仕事をしようとしています。

それぞれの物語を読んで、そこに出てくる人物らと比べ、自分は幾分かは“ましな”人生だと、貴方はそっと胸を撫で下ろすかもしれません。自分の人生はそれほどに悪くはないと安心し、その上で少し涙するかもしれません。

しかし、知るべきは、涙など何の役にもたたない - ということであろうと思います。登場する人物らは、そのことをよく承知しています。彼らは優しい心でありながら、それでいて張りつめた理性を持っており、易々とは泣きません。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「生きる」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」他多数

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