『トワイライトシャッフル』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/12
『トワイライトシャッフル』(乙川優三郎), 乙川優三郎, 作家別(あ行), 書評(た行)
『トワイライトシャッフル』乙川 優三郎 新潮文庫 2017年1月1日発行
房総半島の海辺にある小さな街で生きる場所を探し、立ちつくす男と女。元海女、異国の女、新築に独り暮らす主婦、孤独なジャズピアニスト。離婚後に癌を発病した女は自分で自分を取り戻す覚悟を決め、ヌードモデルのアルバイトを始めた郵便局の女は、夜の街を疾走する・・・・。しがらみ、未練、思うようにならない人生。それでも人には、一瞬の輝きが訪れる。珠玉としか言いようのない13篇。(新潮文庫)
してきた仕事ということで言うなら、私には自慢できるものなど何一つありません。思いのほか事がうまく運んで、良い成績を挙げたこともあるにはあります。褒められもしましたが、その時は嬉しいというより場違いな感じがして、むしろ恥ずかしかった。
それが自分の実力ではないことを、私自身が一番よく知っていたからです。それでも何とか、(後ろ指を指されぬくらいにはやり抜いて)今があります。贅沢さえしなければ何とかやっていける、長い間生きてきてその程度にはなれました。
後悔はといえば、山ほどあります。が、おそらくそれは違う人生であっても同じようなもので、結局のところ、私は私としてしか生きられない。そう思うのです。
老境を前に、日々言葉にならない感慨にひたるとき、こんな本は一番心に沁みます。何より、この人が書く文章に絆されます。心の襞を掬い取るように言葉を紡ぎ、一々が正鵠を得ており、頷くほかありません。
13ある話のうちのどれがどうというのではなく全部がそうで、文句のつけようがありません。右往左往の果てに、出会うべくして出会った。私にとっては、そんな気さえする本なのです。
私は小説の中に「何が書かれているか」ではなくて「どう書かれているか」に興味がある。小説の魅力とは私にとって、作家の使っている日本語の魅力にほかならない。(中略)乙川優三郎の書く日本語に、私は魅了されつづけている。乙川さんの文章は、折り目の美しい折り鶴のようだと思う。その鶴は羽を広げて、掌の上から飛び立つことができる。空を舞う無数の鶴の姿を目にして、私は打ちのめされる。(小手鞠るいの解説より)
内容は様々なのですが、全体があるトーンに包まれ、長い話を読んでいるようにも感じられます。特に思うのは、為すすべもなくただ粛々と生きるしかなかった、名もなき人に対する慈愛ある眼差し - 乙川優三郎という人は、人と人とを分け隔てしません。
最初にある「イン・ザ・ムーンライト」という話を読んでみてください。今は年老いた二人の元海女の話を読んで、その報われない人生に貴方はきっと心を痛めることでしょう。
「ムーンライター」という話を読んでみてください。もしも貴方が女性なら、貴方は、たとえそれが画家が望むモデルの仕事とはいえ、人前に裸を晒して平気でいることができるでしょうか。家族の不足を補うためとはいえ、人はどこまで自分を犠牲にできるのか。
〈自分一人がそうなる〉ことに、どこまで耐えられるのでしょう。展望は開けず、事態が更に悪化するとき、貴方はきっと逃げ出したくなるはずです。しかし真弓は、時給七千円というチラシに誘われて、裸になるより尚つらい状況でまた仕事をしようとしています。
それぞれの物語を読んで、そこに出てくる人物らと比べ、自分は幾分かは“ましな”人生だと、貴方はそっと胸を撫で下ろすかもしれません。自分の人生はそれほどに悪くはないと安心し、その上で少し涙するかもしれません。
しかし、知るべきは、涙など何の役にもたたない - ということであろうと思います。登場する人物らは、そのことをよく承知しています。彼らは優しい心でありながら、それでいて張りつめた理性を持っており、易々とは泣きません。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。
作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「生きる」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」他多数
関連記事
-
『緑の我が家』(小野不由美)_書評という名の読書感想文
『緑の我が家』小野 不由美 角川文庫 2022年10月25日初版発行 物語の冒頭はこ
-
『文身』(岩井圭也)_書評という名の読書感想文
『文身』岩井 圭也 祥伝社文庫 2023年3月20日初版第1刷発行 この小説に書か
-
『きみはだれかのどうでもいい人』(伊藤朱里)_書評という名の読書感想文
『きみはだれかのどうでもいい人』伊藤 朱里 小学館文庫 2021年9月12日初版
-
『報われない人間は永遠に報われない』(李龍徳)_書評という名の読書感想文
『報われない人間は永遠に報われない』李 龍徳 河出書房新社 2016年6月30日初版 この凶暴な世
-
『ニムロッド』(上田岳弘)_書評という名の読書感想文
『ニムロッド』上田 岳弘 講談社文庫 2021年2月16日第1刷 仮想通貨をネット
-
『罪の声』(塩田武士)_書評という名の読書感想文
『罪の声』塩田 武士 講談社 2016年8月1日第一刷 多くの謎を残したまま未解決となった「グリコ
-
『正しい愛と理想の息子』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文
『正しい愛と理想の息子』寺地 はるな 光文社文庫 2021年11月20日初版1刷 物
-
『通天閣』(西加奈子)_書評という名の読書感想文
『通天閣』西 加奈子 ちくま文庫 2009年12月10日第一刷 織田作之助賞受賞作だと聞くと
-
『ざんねんなスパイ』(一條次郎)_書評という名の読書感想文
『ざんねんなスパイ』一條 次郎 新潮文庫 2021年8月1日発行 『レプリカたちの
-
『静かにしなさい、でないと』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文
『静かにしなさい、でないと』朝倉 かすみ 集英社文庫 2012年9月25日第1刷