『ロゴスの市』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『ロゴスの市』(乙川優三郎), 乙川優三郎, 作家別(あ行), 書評(ら行)

『ロゴスの市』乙川 優三郎 徳間書店 2015年11月30日初版

至福の読書時間を約束します。乙川文学の新しい姿がここに! 

昭和55年、弘之と悠子は、大学のキャンパスで出会う。翻訳家と同時通訳として言葉の海に漂い、二人は闘い、愛し合い、そしてすれ違う。数十年の歳月をかけて、切なく通い合う男と女。運命は過酷で、哀しくやさしい。異なる言語を日本語に翻訳するせめぎ合い、そして、男と女の意表をつく、”ある愛のかたち”とは!? 二人が辿る人生の行く末は! 傑作恋愛小説。(アマゾン内容紹介より)

皆さんは「芝木好子」という作家をご存じでしょうか? 1941年、『青果の市』という作品で芥川賞を受賞した彼女は、77歳で亡くなるまでに多くの文学賞を受賞し、特に工芸や美術などに打ち込む女性と、それら芸術に通じた男性との恋情を哀感豊かに描いて名を馳せた女性(ひと)であったようです。

小説の後半、暫しの息抜きにと図書館に来た弘之は、なんとなく最初に書棚から、純文学らしい地味な装幀の、しかもかなり古そうな本を一冊抜き出します。

「隅田川暮色」
「芝木好子」

聞いたことがない。つまらなければ戻すつもりで、彼は冒頭に目をやった。文章の質を見極める自信はあって、数行でも読めたら佳い小説である可能性が高く、ページを捲らせたら間違いなく佳品である。

彼はページを捲った。やがて次のページも捲った。それから深い吐息をついた。なにが美しいといって、これほど無駄のない端整な文章は初めてであった。日本語が生きているのを感じるし、精妙な表現が続出する。英訳は無理だろうと思わせる間(ま)と語尾と女性語が独特の情趣を生んで、読む人を酔わせる。

言葉に導かれることが心地よい。いわゆる純文学の難解さは微塵もなく、見えてくるのは作家自身が生きて知る時代を言葉にしている強さと落ち着きであった。心が還りたがるところの日本を描いているとでもいうのか、汚れた川を描きながら物語の空間は澄んでいる。

-(男性と女性)性こそ違え、ここにある文章のすべては、そっくりそのまま乙川優三郎の書く小説にこそ当てはまるのではないかと。

そう書いたあと、弘之は - 私にはもう乙川本人としか思えないのですが - こうも続けます。

言葉の繭から理性の糸を紡ぐときの潤いを文章に感じると、その糸で織られる布の肌触りは格別であろうと思う。この文体で英文学を訳したらどうなるかと考えるのは翻訳家の欲深さだが、彼は考えずにはいられなかった。

むろん何もかもというわけにはいかない。作家の個性や原作との巡り合いに左右されるのも翻訳である。しかしいつかふさわしい小説が現れたときのために、性根を据えて自分の日本語を磨くことに集中したいと思った。

英語圏の作家の分身となってその小説を日本語に訳すことを仕事にしているのが「成川弘之」という男で、男には、心にこうと決めた女がいます。女は名前を「戒能(かいの)悠子」といい、同時通訳をしています。

彼女が通訳を意識し、弘之が漠然と翻訳家を志したのは大学二年のときで、二十歳の二人は昭和五十五年を生きています。弘之は商社マンの父と服飾デザイナーの母を持ち、悠子の家は不動産屋をしています。

物語はそこから始まり、それから約三十年の時が経ちます。二人は年に一度、ドイツのフランクフルトで開催されるブックフェアで会おうと約束します。二人でロゴス(言語)の世界に浸り、素敵な本を漁り、マイン川のほとりを歩く。

十月のフランクフルトの空は重いが、それだけにスカイラインが美しい、一週間は夢のように過ぎるだろう - そう言ったとき、逢えずにいたときの悠子の煩悶を、弘之は、まだいかほども知らずにいます。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「生きる」「武家用心集」「蔓の端々」「脊梁山脈」「トワイライトシャッフル」他多数

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