『虫娘』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『虫娘』井上 荒野 小学館文庫 2017年2月12日初版


虫娘 (小学館文庫)

四月の雪の日。あの夜、シェアハウスで開かれたパーティーで、一体何があったのか? 「樅木照はもう死んでいた」という衝撃的な一行からこの物語は始まる。しかも死んだはずの照の意識は今もなお空中を、住人たちの頭上を、「自由」に浮遊している。悪意と嫉妬、自由と不自由 - 小さな染みがじわじわ広がり、住人たちは少しずつ侵されていく。《みんなが照を嫉(ねた)んでいたにちがいない。みんな不自由だったが、照は自由だった。・・・・俺も彼女が嫉ましかった。でも、俺は殺していない。じゃあ、誰だ? 》 著者の新境地をひらくミステリ&恋愛小説の傑作。(小学館文庫)

何かを好きになった人は不自由で、弱い。対象は、人でも動物でも、場所でも同じだ。何かに心を奪われた人は、自由も奪われる。(中略)

反対に、何にも心を奪われていない人は無敵だ。だれかを前にして、緊張したり、思いもしないことを口走ったり、黙り込んだりせず、対等でいられるか、見下すことすらできる。それがなくなったらどうしようと不安におびえることはない。心を奪われない、執着しない、関心を持たない。そうできる人は無敵だし、どこまでも自由だ。(角田光代の解説より)

樅木照(もみのきひかる)は、そんな女性として登場します。登場したとき彼女は既に死んでいるのですが、死んでなお、シェアハウスに暮らす住人たちや彼らに関係する人の間を彷徨い、思い思いの言葉を投げかけたりします。

かつて男と女の関係にあった曳田揚一郎(シェアハウスを管理する不動産屋。37歳)に言わせると、照はこんなふうでもあります。

一緒にいても照はそこにいなかった。心ここにあらず。いや、それとも少し違って、照は話しかければちゃんと答えたし、笑い返したし、ベッドの上ではむしろ旺盛に反応したが、いつでも薄紙一枚隔てているような、見えない眼鏡を通して彼女を見ているような印象があった。樅木照の顔はどんなふうだったかと、彼女と会っていないとき、揚一郎はよく考えていた。今でも確信をもって思い出すことができない。

照は、何かを隠す意志も能力も持ち合わせてはいなかった。虫みたいな女だったのだ。(中略)猫とか猿とかいうよりはやっぱり虫だと揚一郎は考える。猫や猿よりもずっと取りつく島がなくて、ある意味で強靭な女だった - あっけなく死ぬその瞬間までは、ということに違いないが - という感じがするのだ。
・・・・・・・・・
樅木照が死んだとき、シェアハウスには(照以外に)大部屋俳優をしている妹尾真人、レストランシェフの桜井竜二、銀行員の鹿島葉子、ライターをしている碇みゆきの4人がいます。生きているときの照は主にヌードモデルが仕事で、時に売春をしたりします。

小説は、(照がというより)照の持つ「自由」な空気や「奔放さ」とは反対に、残る4人の「不自由」な様子とその揚句やがて訪れる、ある悲劇的な顛末を描き出そうとしています。

彼らは「シェアハウス」という響きに相応しい学生や若者ではありません。家賃が安いからであるとか、憧れてそこにいるわけではないのです。では、どんな理由があって彼らはそこにいるのか? そこを離れず、止まっているのか。

そのわからなさが不気味で、それと照との間にどんな関係があり、彼らが照をどう思い、どんなふうに感じていたのか。それを考えさせられることになります。

※鹿島葉子の場合
銀行で働く彼女の預金残高は、現在五百二万六千八十円になっています。とうとう五百万円を越えた - しかし、越えてしまうと葉子は、自分の目標は五百万ではなくて六百七十二万だったのだと気づきます。

それは隣県の信用金庫で去年、葉子と同い年の女子社員が横領した額なのでした。教えられて葉子は彼女の写真を見るのですが、そこにはどうということのない女が写っています。

美しくもない、個性的でもない、自分と同じような女。葉子と違う点は彼女には恋人がいて、その男のために六百七十二万円を騙し取ったということです。48歳、妻子あり、競輪狂いの、はげでもっさりしていて、およそ女を惹きつけるところなど欠片もない男です。

そんな男に彼女はくるったのです。いったいどうしてなんだろうと葉子は思います。どうしてそんな出来事が、私と同じような女の身の上に起きえたのだろうと。

事件のことを葉子が知ったのは去年の春のことです。そのあとすぐに、樅木照がハウスの新しい入居人としてやって来ます。だから、葉子は照のせいのような気がしています。貢ぐ男もいないのに、自分が架空の取引を操作するようになったのは。それにもう一つ、もちろんあのことについても・・・・

 

この本を読んでみてください係数 80/100


虫娘 (小学館文庫)

 

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「そこへ行くな」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数

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