『つやのよる』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『つやのよる』井上 荒野 新潮文庫 2012年12月1日発行


つやのよる

男ぐるいの女がひとり、死の床についている。その名は艶。夫・松生は、かつて妻子を捨て艶と出奔したのだった。艶の危篤を、彼女が関係した男たちへ告げずにはいられない松生。だがその報せは、彼らの妻、娘、恋人、愛人たちに予期せぬ波紋を広げてゆく。平穏な人生に突然割り込んできた女の存在によって、見知った男が別の顔を見せはじめる。一筋縄でいかない男女の関係を描く恋愛長編。(新潮文庫)

艶の存在を知らされた女性たちは、艶のことをまるで知りません。不意に現れた艶を知るうちに、過去に彼女と関係のあった男の妻や娘、恋人や愛人らは知った男の別の顔を知ることになります。艶は、たとえばこんなふうにして知るところとなります。

男はマツオと名乗った。松尾なのか松男なのかわからない。まさかいきなり下の名前を名乗りはしないだろうと思うが、いかにもそういう非常識をしそうな感じでもあった。びくびくしているくせに押しつけがましく、陰気くさいのに甘ったれたところがあった。若造みたいな話しかただったが、実際は自分と同じくらいの歳に違いない、とサキ子は感じた。

電話に出てきた名前はもうひとつあって、マツオよりもそちらのほうが印象は強かった。どういう漢字があたるのかマツオがわざわざ説明したせいかもしれない。その名前は、艶、というのだった。艶はマツオの妻で、今、死にかけている。死にかけている艶とマツオは、O島にいるという。(第3章「艶の愛人だったかもしれない男の妻、橋川サキ子(60歳)」より)

十人いれば十人が『つやのよる』の“つや”とは“通夜”のことだと思うに違いありません。そう思うとわかった上で『つやのよる』というタイトルがついてあります。本当は“艶”という名の女の話で、通夜とは関係ないかといえば、それがそうとも言えません。

艶という女は、今まさしく死ぬ間際にいます。そして、やがて死ぬことになります。それまでの彼女は、浮気に不倫、ストーカーや略奪など好き放題なことをやり、飽きるとすぐに別の男に乗り換える。艶は、いわゆる「男狂い」だったのです。

それはもうめちゃくちゃなのですが、男たちにすれば、(何かを諦観し、「無駄」な希望さえ抱かなければ)艶は女として得難い魅力を持った人物で、ただ思うがままに身体を貪り、後腐れのない、ある意味、およそいるはずのない女であったともいえます。

男たちは、いっとき艶に溺れもしますが、決して愛していたわけではありません。愛とは別のところでときどきに繋がっており、それはそれだけのことだったのです。しかし唯一人、松生春二だけはそうではなかったのです。

松生は、艶の最後の夫として彼女を看取ります。しかし彼もまた、艶と出会った最初から彼女を愛していたわけではありません。少なくとも松生の中では、そうするしか他に仕様がないので妻子と別れ、艶が行こうと言うのでO島へやって来たのでした。

ただ「忙しい」と、松生は思います。艶と出会ってからというもの、松生は絶えず何かに追い立てられるように気忙しくなり、じっとしていられなくなります。艶の行動を見張り、相手の男を捜し出し、艶が死にかけているのだと伝えてまわります。

松生は復讐がしたいのではありません。が、とにかくも艶と関係した男たちの全部に、艶の容体を伝えずにはおけないと思います。やがてそれは男の妻や愛人、恋人や娘の知るところとなり、彼女らは艶という名の女のことを強く知りたいと思うようになります。

艶と関係した男に連なる女性のそれぞれは、艶のことを心から許せないでいるかというと、どうもそういうことではなさそうです。翻弄されはしますが、彼女らは彼女らなりに、艶を通して、夫や今付き合っている男の別の顔を発見し、更には、女としての自分にも向き合うことになります。

松生の艶に対する献身を、それでも愛と呼べないものなのでしょうか。艶という悪女に翻弄されるばかりに思える女性らの、実は心の本音とはどういったものなのでしょう。

女の愛憎はいろいろで解らないことだらけだ。小説に描かれる愛のカタチは複雑で曖昧である。その愛はそれぞれの人生にただ横たわる。主人公たちは容易く愛の実態を掴むわけでもなく、都合良く吹っ切ることもないし、愛によって成長したりもしない。(行定勲の解説より)

だから、井上荒野の小説に嘘はないのだ。と。

 

この本を読んでみてください係数 85/100


つやのよる

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「虫娘」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「雉猫心中」「結婚」「赤へ」他多数

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