『十字架屋の日常』 (井上荒野)_書評という名の読書感想文

『十字架屋の日常』 井上 荒野 中公文庫 2026年2月25日 初版発行

フェミナ賞受賞作わたしのヌレエフ、書籍初収録となる表題作ほか、井上荒野最初期の秀作六編

愛は明滅し若さは容赦なく匂いたつ

その小説世界の、みなもとへ - 「女主人公のまなざしが魅力的なので、抛っておけない」 (田辺聖子氏、フェミナ賞選評) と称されたデビュー作 「わたしのフレエフ」、初めての書籍収録となる 「十字架屋の日常」 ほか、明滅する愛をとらえて匂いたつ、著者最初期の秀作中短編集。(中公文庫)

目 次
わたしのヌレエフ
ビストロ・チェリイの蟹
楽天ちゃん追悼
暗い花柄
グラジオラスの耳
十字架屋の日常

この文庫に至る、時の経過はこうです。

大学卒業後は出版社でバイトしたり、フリーライターとして進学情報誌やタウン誌の記事を書いたりしていたが、同人誌の活動も細々と続けていた。まとまった分量のものが書けたとき、ある文芸誌 (今はもうない) の創刊とともに創設された新人賞に応募してみた。それが 「わたしのヌレエフ」 で、私のプロデビュー作となった。

当時私は二十八歳。今回のこの文庫には、それから三十二歳までの間に書いた短編と中編が収録されている。「グラジオラスの耳」 として福武書店から刊行され、その後光文社で文庫になったものに、未収録の 「十字架屋の日常」 を加えて、あらたな文庫として刊行していただいた。

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あれから三十年以上が経った。今の私は、すくなくとも自分自身の小説の方法がわかっているし、面白い小説、面白くない小説についての自分なりの考えもある。これも個人的な持論だけれど、小説を書く、書けるようになるというのは、世界に対する自分のスタンスをたえず確認し、ときには更新していくことではないかと思っている。あの頃はそれがなかった。だから小説はどれもフラフラしている。

そのフラフラが、自分的には、ちょっと面白かったりする。フラフラしながら、言葉だけに縋って、言葉を操るのではなくてむしろ操られているようなところ。ずっと書いてきたぶん、あまり失敗しなくなって、失敗しなくなったぶん、何か失ったものがあるような気もしている。これから先は、失ったものを少しでも取り戻していきたいと思っている。(「あとがき」 より)

実は、私は光文社文庫より刊行された 『グラジオラスの耳』 を既に読んでいます。今からおよそ10年前のことで、そのとき、どうしても読みたかったのが 「わたしのヌレエフ」 でした。

その、「わたしのヌレエフ」より -

夏子の不倫相手、彼女が通う太極拳教室のインストラクター・南と二人して、彼女がこの夏着る水着を選ぼうと、待ち合わせた喫茶店と同じビルにあるスポーツ用品売り場へ行ったときの話。

〈マーメイド・フェア〉と銘打った極彩色の垂れ幕がいくつも下がった水着売り場で、夏子はまず三着の水着を選び出します。一つは真っ白なワンピース、二つ目は黒地に白い小さな花柄、三つ目はオレンジ色のニットで、細かい縄編みがいくつも入っています。

黒いのがいいな、と南は言います。忙しそうな女店員に手振りだけで示された、にわか作りらしい薄いベニア板の更衣室で夏子は服を脱ぎます。入りくんだ壁に遮られた薄暗い照明の下でさえも去年の日焼けのあとははっきりと鏡に映り、白い小花模様の水着はそれとほぼぴったりと重なります。

格好いいじゃない、なかなか

やっぱりこれがいいみたい

少し離れたところで腕組みする南を、夏子は手を振って呼んだ。肩紐をずらして見せる本当の意味など、彼にはとうていわからぬだろう。(本文より)

※おそらくは、南は何ほどのことも思ってはいないのでしょう。付き合ってまだ間もない頃ならともかくも、逢瀬を重ね、その上中絶手術の直後などであったとしたら、南は南で、夏子もまた夏子で、それまでとは違うふうにしか互いを見られなくなった後の日のことです。

「肩紐をずらして見せる」ことの意味がどうであるかを言いたいのではなく、伝えたいのは夏子がその時確かにそう思ったということ - 特別な男を前にして肌身を晒して見せるような状況にありながら、既に心は乾いたなりで遠く離れてしまっているということ。

その様子をして、著者は、(決してそうではないのに) およそ大したことではないように言って退けます。そのさり気のなさこそに、強く色香が匂い立つのだろうと。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「虫娘」「ほろびぬ姫」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「ママがやった」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」「あちらにいる鬼」「生皮」「あたしたち、海へ」他多数

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