『 Y 』(佐藤正午)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/11
『 Y 』(佐藤正午), 佐藤正午, 作家別(さ行), 書評(わ行)
『 Y 』佐藤 正午 角川春樹事務所 2001年5月18日第一刷
[プロローグ]
1980年、9月6日、土曜日。その夜、青年は渋谷駅のプラットホームで、ある女を見かけます。時刻は7時10分過ぎ。やがて電車が到着し、女と、後ろについて並んだ青年を、帰宅途中の大勢の乗客と共に飲み込んで、電車は再び走り出します。それが7時15分。
女の顔よりもむしろ、青年は彼女の姿勢の良さを鮮明に記憶しています。目立って長い首と、常にぴんと伸びた背筋のシルエットは、彼に、あまり日常では見慣れない何かを連想させます。例えば、それは群れから孤立した気高い鳥の姿のようなものです。
青年は女のそばに立ち、初めて彼女を目にした2ヶ月前を思い出します。彼は彼女と、今と同じ渋谷駅のプラットホームで、そのとき僅かばかり言葉を交わしたことがあったのです。
そのことを今でも彼女は憶えているだろうか? - 今ためらえば、次のチャンスは永遠に巡って来ないかもしれない。彼は、憶えているという方に望みを賭けます。
7時20分。電車は下北沢駅に到着します。青年の願いは、意外にも、あっさり叶うことになります。あてがあってどこかへ誘ったわけではなく、ただどこかで、一緒に電車を降りて静かな場所で話したいというと、彼女は、迷うことなく頷いたのでした。
電車が停止し、ドアが開き、先にホームに降り立ったのは青年の方、続いて彼女が降りる、とその時、彼らは二つの声を耳にします。前方のホーム側からと後方の電車の中から投げかけられた二つの声 - それがその後の二人の運命を決める、大きな分岐点となります。
前からの声に青年が、背後からの声には女が反応する。たったそれだけの違いによって。
まもなく青年は、ホームの人込みの中に声の主を探しあてます。発車のベルが鳴り、われに返った青年が振り向いたとき、電車を降りたはずの女はすでにホームにはいません。彼が見たのは、もう一度車内に戻り、そこに立ちつくす彼女の姿でした。
ドアが閉まります。電車が次の駅を目指して走り出そうとしています。もしも、ドアが閉じてしまう前に彼女が再びホームに降り立つことさえできれば、二人になって語り合いたいという青年の願いは思い通りかなうことになります。
もしもそうであったなら、青年は彼女が見かけとは違い社交的でお喋りな娘であることを知るかもしれません。その日彼女がウォークマンの電池を切らしていたこと、ヘッドホンはつけていたけれど音楽を聴いていたわけではないという拍子抜けの事実や、
彼女には毎朝半個のグレープフルーツを食べる習慣があり、その切断面からの連想で、電車の窓の雨滴がまるで果肉のひと粒ひと粒のように見えたという比喩や、もし今夜の雨が、今夜だけでも本当にグレープフルーツの果肉のように降る雨ならいいのにという、20歳の娘にしては他愛ない空想まで聞かされていたのかもしれません。
しかしながら、もはやそれは叶わぬ現実で、この先青年は、おそらく一度たりとも彼女の話を、あるいはその声すらも聞くことができません。なぜなら、今彼女が再び乗り込んだ電車は、まもなく不幸で凄惨な事故に見舞われてしまう運命にあります。
次の駅を目指して発車しようとしている急行電車は、その雨の夜、決して次の駅には到着しません。ドアが閉まり、電車が次の駅へ向かって動き出したそのとき、彼女は車内に取り残され、ホームに立つまだ名前も知らぬ青年とドアの窓越しに目くばせを、それがおそらく最後になる目くばせを交わします。
1980年9月6日土曜日、下北沢駅プラットホーム。電車が着き、乗降客が入れ違い、発車のベルが鳴り、ドアが閉まり、また電車が動き出す。
これはそのほんのわずかな時間をめぐる物語だ。
・・・・・・・・・
この小説は、そんな、ほんのわずかな時間でもこの手に取り戻せれば - あの日あの時刻に生じてしまった過去の事実を、別のかたちに置き換えることができればと、長い人生の途中で誰もが一度は願う奇跡を、本気で願い続けた男の物語です。
※ちょっと色々こんがらがるかもしれません。でも、間違いなくおもしろい。途中でやめられなくなります。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆佐藤 正午
1955年長崎県生まれ。
北海道大学文学部中退。
作品 「永遠の1/2」「リボルバー」「個人教授」「彼女について知ることのすべて」「ジャンプ」「鳩の撃退法」「月の満ち欠け」他
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