『寡黙な死骸 みだらな弔い』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
『寡黙な死骸 みだらな弔い』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(か行)
『寡黙な死骸 みだらな弔い』小川 洋子 中公文庫 2003年3月25日初版
息子を亡くした女が洋菓子屋を訪れ、鞄職人は心臓を採寸する。内科医の白衣から秘密がこぼれ落ち、拷問博物館でベンガル虎が息絶える - 時計塔のある街にちりばめられた、密やかで残酷な弔いの儀式。清冽な迷宮を紡ぎ出す、力作連作短篇集。(中公文庫)
すばらしく天気のいい日曜日の午後、私は苺のショートケーキを買おうと、前に見つけた小さな洋菓子屋に入ります。しかし店には誰もいません。仕方がないので、片隅にある丸椅子へ腰掛けて待つことにします。
「誰もいないの? 」そう言いながら、不意に初老の女性が入ってきます。老女は振り向き、「ちょっとお使いにでも出たんだろうね。すぐに戻ってきますよ」と微笑み、「なんなら私が売ってあげてもいいんだけど。ここに香辛料を卸しているもんでね」 と話し掛けます。
「苺のショートケーキがあって、よかったわ」 「しかもあれは、本物ですね。ゼリーや余計な果物や偽物の人形や、そんなもので飾り立てていない、クリームと苺だけの、本当のショートケーキ」 ケースを指差しながら私がそう言うと、老女はこう応えます。
「ええ、そうですとも。私が保証します。店一番の自信作ですよ。なにせ生地に、うち特製のバニラを効かせてありますからね」
「息子に買ってやるんです。今日が誕生日なんです」
「まあ、そうですか。それはおめでたいじゃありませんか。で、息子さんはおいくつに? 」
「六つです。ずっと六つです。彼は死んだんです」
十二年前、彼は冷蔵庫の中で死んだ。廃材置場の、壊れた冷蔵庫の中で、窒息死していた。最初見た時、死んでいるとは思いもしなかった。三日も家に帰らなかったから、私に合わせる顔がなくて、ただうな垂れているだけだと思った。
第一話「洋菓子屋の午後」はこんなふうに始まっていきます。
寡黙な死骸 みだらな弔い - 文庫版のためのあとがきより(一部割愛)
ある日、犬の散歩をしていたら、中学生の男の子が近寄ってきて、「撫でてもいいですか」 と尋ねた。私は 「どうぞ」 と言って犬をお座りさせた。少年は犬に興味はあるが、慣れてはいない様子だった。慎重に手をのばし、頭のてっぺんを指先でつつくようにして撫でた。
「何歳ですか? 」
「五歳よ」
「まだ子供ですね」
「いいえ。もう大人よ。犬の寿命は十五年くらいだから」
「えっ」 少年は手を止め、短い声を上げた。
「十五年しか生きられないんですか? 」 心の底から驚いているのが分かった。
「じゃあ、あと、もう少しじゃないですか・・・・・・・」 「こんな大きな犬が死んだら、一体どうなるんですか・・・・・・・」 誰に尋ねるふうでもなく、少年は繰り返した。
私は何か答えたいと思った。礼儀正しく、心優しいこの少年を、どうにかして安心させてあげたかった。しかし私の口から出てきたのは、動物の葬儀屋さんにお任せすれば大丈夫なのよ、とか、まだあと十年もあるじゃないの、といったごまかしの言葉ばかりだった。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、自分が書こうとする書物は、既に誰かによって書かれているのだという、一見書き手にとって不自由と思われる想定を、実に魅力的な可能性へと飛躍させた。
自分が過去に味わった読書体験のうち、最も幸福だったものは、ああ、今読んでいるこのお話は、遠い昔、顔も名前も知らない誰かが秘密の洞窟に刻み付けておいたのを、ポール・オースターが、川端康成が、ガルシア・マルケスが、私に語って聞かせてくれているのだ、と感じる一瞬だった。
小説を書くとは、洞窟に言葉を刻むことではなく、洞窟に刻まれた言葉を読むことではないか、と最近考える。そこに既にある言葉を私が読み取れるなら、犬が死んだあとどうなるかについての物語を、少年に話して聞かせてあげられるだろうに。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「ブラフマンの埋葬」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ミーナの行進」他多数
関連記事
-
-
『告白』(湊かなえ)_書評という名の読書感想文
『告白』湊 かなえ 双葉文庫 2010年4月11日第一刷 告白 (双葉文庫) (双葉文庫 み
-
-
『賢者の愛』(山田詠美)_書評という名の読書感想文
『賢者の愛』山田 詠美 中公文庫 2018年1月25日初版 賢者の愛 (中公文庫) 高中真由
-
-
『ほかに誰がいる』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文
『ほかに誰がいる』朝倉 かすみ 幻冬舎文庫 2011年7月25日5版 ほかに誰がいる (幻冬
-
-
『夢に抱かれて見る闇は』(岡部えつ)_書評という名の読書感想文
『夢に抱かれて見る闇は』岡部 えつ 角川ホラー文庫 2018年5月25日初版 夢に抱かれて見る
-
-
『潤一』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
『潤一』井上 荒野 新潮文庫 2019年6月10日3刷 潤一 (新潮文庫) 「好きだよ
-
-
『彼女は頭が悪いから』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文
『彼女は頭が悪いから』姫野 カオルコ 文藝春秋 2018年7月20日第一刷 彼女は頭が悪いから
-
-
『後妻業』黒川博行_書評という名の読書感想文(その2)
『後妻業』(その2) 黒川 博行 文芸春秋 2014年8月30日第一刷 後妻業 ※二部構
-
-
『夏目家順路』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文
『夏目家順路』朝倉 かすみ 文春文庫 2013年4月10日第一刷 夏目家順路  
-
-
『夜をぶっとばせ』(井上荒野)_書評という名の読書感想文
『夜をぶっとばせ』井上 荒野 朝日文庫 2016年5月30日第一刷 夜をぶっとばせ (朝日文庫
-
-
『教場』(長岡弘樹)_書評という名の読書感想文
『教場』長岡 弘樹 小学館 2013年6月24日初版 教場 この人の名前が広く知られるようになっ