『寡黙な死骸 みだらな弔い』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/11
『寡黙な死骸 みだらな弔い』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(か行)
『寡黙な死骸 みだらな弔い』小川 洋子 中公文庫 2003年3月25日初版
息子を亡くした女が洋菓子屋を訪れ、鞄職人は心臓を採寸する。内科医の白衣から秘密がこぼれ落ち、拷問博物館でベンガル虎が息絶える - 時計塔のある街にちりばめられた、密やかで残酷な弔いの儀式。清冽な迷宮を紡ぎ出す、力作連作短篇集。(中公文庫)
すばらしく天気のいい日曜日の午後、私は苺のショートケーキを買おうと、前に見つけた小さな洋菓子屋に入ります。しかし店には誰もいません。仕方がないので、片隅にある丸椅子へ腰掛けて待つことにします。
「誰もいないの? 」そう言いながら、不意に初老の女性が入ってきます。老女は振り向き、「ちょっとお使いにでも出たんだろうね。すぐに戻ってきますよ」と微笑み、「なんなら私が売ってあげてもいいんだけど。ここに香辛料を卸しているもんでね」 と話し掛けます。
「苺のショートケーキがあって、よかったわ」 「しかもあれは、本物ですね。ゼリーや余計な果物や偽物の人形や、そんなもので飾り立てていない、クリームと苺だけの、本当のショートケーキ」 ケースを指差しながら私がそう言うと、老女はこう応えます。
「ええ、そうですとも。私が保証します。店一番の自信作ですよ。なにせ生地に、うち特製のバニラを効かせてありますからね」
「息子に買ってやるんです。今日が誕生日なんです」
「まあ、そうですか。それはおめでたいじゃありませんか。で、息子さんはおいくつに? 」
「六つです。ずっと六つです。彼は死んだんです」
十二年前、彼は冷蔵庫の中で死んだ。廃材置場の、壊れた冷蔵庫の中で、窒息死していた。最初見た時、死んでいるとは思いもしなかった。三日も家に帰らなかったから、私に合わせる顔がなくて、ただうな垂れているだけだと思った。
第一話「洋菓子屋の午後」はこんなふうに始まっていきます。
寡黙な死骸 みだらな弔い - 文庫版のためのあとがきより(一部割愛)
ある日、犬の散歩をしていたら、中学生の男の子が近寄ってきて、「撫でてもいいですか」 と尋ねた。私は 「どうぞ」 と言って犬をお座りさせた。少年は犬に興味はあるが、慣れてはいない様子だった。慎重に手をのばし、頭のてっぺんを指先でつつくようにして撫でた。
「何歳ですか? 」
「五歳よ」
「まだ子供ですね」
「いいえ。もう大人よ。犬の寿命は十五年くらいだから」
「えっ」 少年は手を止め、短い声を上げた。
「十五年しか生きられないんですか? 」 心の底から驚いているのが分かった。
「じゃあ、あと、もう少しじゃないですか・・・・・・・」 「こんな大きな犬が死んだら、一体どうなるんですか・・・・・・・」 誰に尋ねるふうでもなく、少年は繰り返した。
私は何か答えたいと思った。礼儀正しく、心優しいこの少年を、どうにかして安心させてあげたかった。しかし私の口から出てきたのは、動物の葬儀屋さんにお任せすれば大丈夫なのよ、とか、まだあと十年もあるじゃないの、といったごまかしの言葉ばかりだった。
ホルヘ・ルイス・ボルヘスは、自分が書こうとする書物は、既に誰かによって書かれているのだという、一見書き手にとって不自由と思われる想定を、実に魅力的な可能性へと飛躍させた。
自分が過去に味わった読書体験のうち、最も幸福だったものは、ああ、今読んでいるこのお話は、遠い昔、顔も名前も知らない誰かが秘密の洞窟に刻み付けておいたのを、ポール・オースターが、川端康成が、ガルシア・マルケスが、私に語って聞かせてくれているのだ、と感じる一瞬だった。
小説を書くとは、洞窟に言葉を刻むことではなく、洞窟に刻まれた言葉を読むことではないか、と最近考える。そこに既にある言葉を私が読み取れるなら、犬が死んだあとどうなるかについての物語を、少年に話して聞かせてあげられるだろうに。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「ブラフマンの埋葬」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ミーナの行進」他多数
関連記事
-
『殺戮にいたる病』(我孫子武丸)_書評という名の読書感想文
『殺戮にいたる病』我孫子 武丸 講談社文庫 2013年10月13日第一刷 東京の繁華街で次々と猟奇
-
『忌中』(車谷長吉)_書評という名の読書感想文
『忌中』車谷 長吉 文芸春秋 2003年11月15日第一刷 5月17日、妻の父が86歳で息を
-
『果鋭(かえい)』(黒川博行)_書評という名の読書感想文
『果鋭(かえい)』黒川 博行 幻冬舎 2017年3月15日第一刷 右も左も腐れか狸や! 元刑事の名
-
『地獄行きでもかまわない』(大石圭)_書評という名の読書感想文
『地獄行きでもかまわない』大石 圭 光文社文庫 2016年1月20日初版 冴えない大学生の南里
-
『残像』(伊岡瞬)_書評という名の読書感想文
『残像』伊岡 瞬 角川文庫 2023年9月25日 初版発行 訪れたアパートの住人は、全員 “
-
『花や咲く咲く』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文
『花や咲く咲く』あさの あつこ 実業之日本社文庫 2016年10月15日初版 昭和18年、初夏。小
-
『ifの悲劇』(浦賀和宏)_書評という名の読書感想文
『ifの悲劇』浦賀 和宏 角川文庫 2017年4月25日初版 小説家の加納は、愛する妹の自殺に疑惑
-
『紙の月』(角田光代)_書評という名の読書感想文
『紙の月』 角田 光代 角川春樹事務所 2012年3月8日第一刷 映画 『紙の月』 の全国ロー
-
『煙霞』(黒川博行)_書評という名の読書感想文
『煙霞』黒川 博行 文芸春秋 2009年1月30日第一刷 WOWOWでドラマになっているらし
-
『月の上の観覧車』(荻原浩)_書評という名の読書感想文
『月の上の観覧車』荻原 浩 新潮文庫 2014年3月1日発行 本書『月の上の観覧車』は著者5作目