『ニシノユキヒコの恋と冒険』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『ニシノユキヒコの恋と冒険』川上 弘美 新潮文庫 2006年8月1日発行

ニシノくん、幸彦、西野君、ユキヒコ・・・・・・・。姿よしセックスよし。女には一も二もなく優しく、懲りることを知らない。だけど、最後に必ず去られてしまう。とめどないこの世に真実の愛を探してさまよった、男一匹ニシノユキヒコの恋とかなしみの道行きを、交情あった十人の女たちが思い語る。はてしなくしょうもないニシノの生きようが、あなたの心の古傷を甘くうずかせる、傑作連作集。(新潮文庫)

この小説は 「ニシノユキヒコ」 という稀代の色男についての物語です。そしてそれはとりもなおさず、彼を愛した、しかし愛をまっとうするにはあまりに危うい男ゆえ、ついぞ愛し切れずに立ち去っていく女たちについての物語でもあります。
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第三話 「おやすみ」より  (ユキヒコの属する課の副主任である、つまりは彼の上司で三歳上の榎本真奈美の述懐を中心に)

ユキヒコが声を荒げたことは、今まで一度もない。マナミ、とわたしの名を呼ぶときの、柔らかな口調。ユキヒコはいつもほほえんでいる。わたしの視線をとらえた瞬間の、今にも笑いだしそうなくちもと。ユキヒコのなめらかな顎の下。少しのびてきた髭の生えたそこにさわったときの、ぞくぞくとする感触。

どこから見ても、ユキヒコはもうしぶんなかった。わたしは、ユキヒコを好きだというそぶりを見せたことなど、一度もなかった。けれど、最初からわたしはユキヒコが好きだった。

社内恋愛など毛頭するつもりがなかったのに。それなのに、ユキヒコがわたしの課に配属されたとたんに、わたしはユキヒコのことが好きになっていた。わたしは、ユキヒコに、くるおしく熱烈な恋をしていた。会った瞬間から。

ユキヒコはそのことを知っていた。知っていて、しかも知らないふりをしなかった。わたしが知ってほしくないと思っていることが、わかっているくせに。

わたしがユキヒコにひそかに恋していることを知りぬいていて、わたしがその恋をどうにかして自分の中でもみ消そうとしていることも知りぬいていて、しかしユキヒコはわたしを許そうとしなかった。わたしがその恋を勝手に消滅させることを、許そうとはしなかった。

マナミ、とユキヒコはわたしの名を呼んだ。会議室のくらやみの中で。ブラインドのおりたくらがりの中で。ユキヒコにはじめて呼ばれたわたしの名前がすでにして甘く溶けだしていることに、衝撃をおぼえた。

ユキヒコはわたしの上半身を会議室の机の上に横たえた。わたしはいやと小さく言った。何回でもいやと言った。ユキヒコは優雅な凶暴さでわたしの声を封じた。ユキヒコはわたしをすっかり自分のものにした。 (あとは本文を読んでのお楽しみ! )
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無類の女たらしであるニシノユキヒコは、相手との関係が気まずくなると見るや、いかにも辛そうな顔をして

どうして僕はきちんとひとを愛せないんだろう、などと言います。 おまえなあ・・・・・・・

って知らないよ。そんなの。あんた太宰か。人間失格か。- これは解説の藤村千夜さんの言葉

でも、しょうがない。世の中理不尽なもので、男も女も要は容姿次第。その上優しいとくれば文句のつけようがない。腹が立つのはそれを十二分に享受していながらそうは思っていないということ。節操がない奴ほど手に負えない、そんな輩には勝てっこないということです。

〈ニシノくんはまず、なかなかの男前である。ニシノくんはまた、清潔である。ニシノくんはさらに、やさしく礼儀正しい。ニシノくんはおまけに、堅実な会社に勤めている。〉 〈37歳独身。市内に独り暮らし。魅惑の会社員。ニシノユキヒコ。〉 (第八話 「まりも」より)

女自身も知らない女の望みを、いつの間にか女の奥からすくいあげ、かなえてやる男。それがニシノユキヒコ。千夜さんいわく、

つまり彼の姿は、あくまでも女性の好みを反映したものとして、その場にあらわれるのだ。ただ一点、自分(だけ)のものにならない、ということを除いては。

ニシノユキヒコと関わった女たちは、やがて彼の懲りない性分を知るに及んで、存分に(!?)打ちのめされることになります。そして、煮え滾る煩悶の末、断ち切れぬ未練を断ち切ってまで、彼の元から立ち去っていく決心をします。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。
お茶の水女子大学理学部卒業。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「水声」「どこから行っても遠い町」他多数

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