『その話は今日はやめておきましょう』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

『その話は今日はやめておきましょう』井上 荒野 毎日新聞出版 2018年5月25日発行

定年後の誤算。
一人の青年の出現で揺らぎはじめる夫婦の日常 - 。
「老いゆく者」の心境に迫る、著者の新境地!

趣味のクロスバイクを楽しみながら、定年後の穏やかな日々を過ごす昌平とゆり子。ある日、昌平が交通事故で骨折し、「家事手伝い」の青年・一樹が通うようになる。息子のように頼もしく思っていたが、ゆり子は、家の中の異変に気づく・・・・・・・(毎日新聞出版社)

若い人なら、およそこんな本を読みたいとは思わないだろう。誰だって、そうだ。若ければ他に読みたいと思う本は山ほどある。わざわざ、何を好んでこんな “年寄り” の話を読みたいと思うものか。私だって、そうだ。きっとそうだったに違いない。

歳を取るというのは、たとえば、切り刻むように目まぐるしく変化した毎日が、嘘のように平坦になる。昨日と今日、今日と明日の境い目が、限りなく曖昧になる。

気にはなるものの、それは必ずしも今すぐ解決せねばならない事ではないような。それはそうとして、今のままでも良いような。慌てることはない。もう十二分に生きてきたのだから。

その話は今日はやめておきましょう。

69歳の妻・ゆり子が、言外にそう言う。それはただ単に問題を先送りにしたいということではなくてある種の諦念 - 長く生きて培ったいわば生きる方便、止むを得なさゆえのことだろう。

(含むところはあるものの) それがわかるので、72歳の夫・昌平は敢えて語ろうとはしない。彼は(その年齢にしては)案外物わかりが良い。昌平はゆり子を愛していたし、それは今も変わらない。二人は順当に歳を重ねた、お手本のような老夫婦なのだ。

しかるに、今となっては、ゆり子も昌平も、26歳の一樹のことがわからない。都合がいいのを良い事に、二人はわからないままに彼を受け入れる。どこのどんな青年かも調べずに、一樹の別の一面を見て見ぬふりをする。見たいと思う彼だけを見る。

それはもう何か大事な、大事なものを崇めるような眼差しで。

一樹が本当の悪人かといえばそうではない。しかし、真人間かといえば嘘になる。行き当たりばったりで節操がなく、時に暴力的になる。好きな彼女を妊娠させ、彼女が堕胎したのも知らないでいる。おまけに夫婦を騙し、慰謝料を貸してくれとまで言う。

しかし、今のゆり子と昌平にしてみれば、同情すべきはあくまで一樹の方で、二人は善良で、夫婦にとって一樹の存在は、そんなこととは違う平面にある。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「夜をぶっとばせ」「虫娘」「ほろびぬ姫」「もう切るわ」「グラジオラスの耳」「切羽へ」「夜を着る」「誰かの木琴」「つやのよる」「結婚」「赤へ」他多数

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