『金魚姫』(荻原浩)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/10
『金魚姫』(荻原浩), 作家別(あ行), 書評(か行), 荻原浩
『金魚姫』荻原 浩 角川文庫 2018年6月25日初版
金魚の歴史は、いまを遡ること凡そ千七百年前、中国の晋の時代を嚆矢とする。長江(揚子江)水系の深山に棲息するヂイ(中国ブナ)のうちの一匹に、「火の如く赤い魚」が現れた。(長坂常次郎著 『金魚傳』 より)
そう、これは遠い遠い昔の、中国での話。
女は走っていた。(中略) 暗くなる前に森を抜けるのはもう叶わぬことに思えたが、足は止まらなかった。追っ手が迫っていることは、夏至の風が運んでくる人馬の声を聞かずとも明らかだった。
女は、郡太守 劉顯 (りゅうけん) との婚から逃れてきた。赤い衣は婚儀のための忌ま忌ましい新娘衣裳だ。
女の名は、揚娥 (ようが)。文人、揚忠の娘。沈魚美人、川で衣を洗えば、その美しさに魚が驚き水底へ沈む、と謳われた白面は硬くこわばっている。薊の原を踏み越えてきた両足から血が流れ、紅の裾に違う赤を散らしていた。
揚娥には許嫁がいた。王凱。互相思慕の仲だった。二人を引き裂いたのは、劉顯だ。憎い男。顔色が山椒魚の如く青黒く、額や頬に醜い瘤のある老人。王凱は無実の咎で捕らえられ、土中に首まで埋められて、顔の形がなくなるまで打たれ、喉を裂かれて殺された。
背後で哮り声が大きくなってきた。女の足では時を待たず追いつかれてしまうだろう。女は森を抜けることを諦め、かたわらの斜面に取りすがった。ここを登り詰めた先に、ヂィの沼があるはずだった。
・・・・・・・・・・・・・・
遙か下に霧に煙るヂィの沼がある。満月のような円い沼だ。陽の落ちたいま、湛える水は森より昏い。
「待て」 追っ手が叫んでいた。 これ以上、何を待てと言うのだ。
女は身を投げた。墨絵の風景の中を、赤い衣が幾叉にもちぎれた裾をひらめかせて、昏い沼へ落ちていった。
事の発端。今ある世界の、東京での話。
主人公の江沢潤は、仏壇仏具を販売するブラック企業「メモリアル商会」に勤める冴えないサラリーマン。同棲していた恋人にもふられ、生きる気力を失くしていた彼は、ある日の夜、気まぐれに出かけた夏祭りの金魚すくいで一匹の琉金を手に入れます。
古本屋で見つけた 『金魚傳』 という古書を頼りに、潤が金魚を飼い始めたばかりの夜、突如彼の部屋に、赤い衣を身に纏い、全身から水を滴らせた一人の美女が現れます。
古めかしい言葉を使い、えびせんが大好物で、テレビのものまねを連発する風変りな女。記憶を持たない彼女をリュウと名付けた潤は、奇妙なことにその直後から死者の姿が見え始め、まるでダメだった仕事で次々と成果を上げるようになります。つかの間順調に思えた “二人の” 生活だったのですが・・・・・・・
遙かなる時空を越えて物語は交錯し、秘められたリュウの願いは叶うかに思われた。
二人(一人と一匹)は、最初なにも知りません。記憶を失くしたリュウは、自分がなぜ琉金に姿を変えなくてはならなかったのか、その理由がわかりません。たしかなことは、リュウは誰かを捜し出そうとしています。
ただの金魚が、長く真っ直ぐな黒髪と裾の広がった赤い服から水を滴らせた美女へと姿を変えるのを、潤は最初、仕事による過度なストレスがもたらした幻覚症状だと考えます。目の前で起こるあまりに奇妙な出来事に、しばらくはうまく反応できずにいます。
しかしそれはまぎれもない現実で、二人はやがて人と人との、男と女としての交情を深めていくことになります。
リュウにしてみれば、1700年の時を経て、潤は巡り合うべくして巡り合った人物だったのでした。しかしながら潤がそれと気付くのは、リュウよりもずっと後のことになります。
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◆荻原 浩
1956年埼玉県大宮市生まれ。
成城大学経済学部卒業。
作品 「オロロ畑でつかまえて」「コールドゲーム」「明日の記憶」「誰にも書ける一冊の本」「砂の王国」「四度目の氷河期」「二千七百の夏と冬」「海の見える理髪店」他多数
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