『坂の途中の家』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『坂の途中の家』角田 光代 朝日文庫 2018年12月30日第一刷

坂の途中の家 (朝日文庫)

最愛の娘を殺した母親は、私かもしれない - 。虐待事件の補充裁判員になった里沙子は、子どもを殺した母親をめぐる証言にふれるうち、いつしか彼女の境遇に自らを重ねていくのだった。社会を震撼させた乳幼児虐待事件と 〈家族〉 であることの光と闇に迫る心理サスペンス。感情移入度100パーセントの社会派エンターテイメント! (朝日新聞出版HPより)

本書を読み進めるうちに、私はこの小説は自分のことを書いているのだと強く思い込んだ。私も幼児を抱えていて、虐待をしたのではないかと周囲に疑われることに怯え、説明すればするほど誤解は深まっていき、話す気力さえ奪われていくほどに苦しんだ時期がある。どうして私のことを知っているのだろうと。(河合香織の解説の一部)

里沙子が結婚したのは、4年前、29歳の時です。二歳年上の夫・陽一郎は、家具や内装の設計事務所に勤めるサラリーマン。夫婦の間には、今年3歳になる娘・文香がいます。

ある日、里沙子のもとに、裁判所から 「刑事事件の裁判員の候補者」 に選ばれたという通知が届きます。その事件とは、里沙子と同じ年頃の専業主婦・安藤水穂が、生後8ヶ月の娘を浴槽に落とし虐待死させたという衝撃的なものでした。

悩んだ末、里沙子は “補充裁判員” の一人として公判に加わることを決意します。

公判が進み詳細が明らかになるにつれ、当初は悪感情しかなかった被告人・水穂に対し、里沙子は彼女のことを、手前勝手な理由で我が子の命を奪った殺人犯だとは思えなくなっていきます。水穂が置かれた境遇を知ると、他人事とは思えなくなります。

実は、事件を起こす前の水穂のように、そのころ里沙子もまた悩んでいたのでした。水穂の夫・寿士がしたというあからさまな暴言や暴力ではないにせよ、折に触れ、夫・陽一郎がする里沙子に向けた一々の “アドバイス” について -

それは、もしかすると - 無意識の内に仕掛けた 「悪意」 ではないのかと。妻である里沙子は、妻ゆえに、常に夫の自分より弱い立場にいるべきものと思ってのことではないのか。愛するゆえに、愛とは裏腹に、暗に相手を貶めているのではないのだろうかと。

公判の七日目。ここに至って里沙子は、もはや自分と水穂の区別が付かなくなっています。その頃の彼女の心境はというと、例えば、以下のようなものです。

夫に、おっぱいからミルクに替えたことを母親には黙っていてほしいと言うことはできる、いつか一戸建てに住みたいと言うことも。

なのに飲み会や会食が入ったら連絡してほしいと、なぜなら夕食を無駄にしたくないからというだけのことを、あの日以来、里沙子は言えずにいる。連絡できないときが多いのだろうと私は理解している。と自分に思いこませて。そんな気持ちもきっとわかってはもらえまい。(後略)

もし今すぐそれをうまく言葉にできたら口を開くが、できそうもないと里沙子はちいさくため息をつく。場違いにお洒落をしてきたあの人(水穂)をかばいたいのではない。そういうこともあるのだと伝えたい。

収入について言えても、早く帰ってきてと言えないことは、矛盾してはいないし、よくあることだ。感じのよくない保健師に自信をなくされることもよくある。そのことをだれにも言えないこともよくある。公園にいっても感じの悪い母親としか会えないことだってよくある。

悪気のない言葉に大げさなくらい落ちこむこともよくある。義母の言葉にかちんとくることもよくある。母親の何気ない言葉に傷つくこともよくある。取り巻きすべてが、悪いことばかりに思えることは、本当によくある。

実際に、悪いことばかり起きることだって、ないわけではない。それすら主観だと言われれば、そうだ。でも、主観でなくて私たちは何で判断するのだろう。(P392.393)

公判を終えたあとの里沙子は、決まって文香を預けた義父母の家へ向かいます。玄関先で文香を迎え、一刻も早く帰ろうとするのですが、文香は、どうかすると激しく母の里沙子に盾を突きます。帰らないと言い、聞き入れられないと、あらん限りの声で泣きます。

その年頃の子どもというのは元来がそういうもので、彼女も、それは十分承知しています。しかし、そのことと日々の自分の言動とは必ずしも一致しません。時に、文香を激しく叱り、疎ましくさえ思う自分の感情は、もしかすると - そもそも、私は、文香を愛しているのだろうか - 彼女をそんな気持ちにさせるのでした。

この本を読んでみてください係数  85/100

坂の途中の家 (朝日文庫)

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「笹の舟で海をわたる」「ドラママチ」「愛がなんだ」「それもまたちいさな光」他多数

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