『奇貨』(松浦理英子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/14 『奇貨』(松浦理英子), 作家別(ま行), 書評(か行), 松浦理英子

『奇貨』松浦 理英子 新潮文庫 2015年2月1日発行

知ってる人は、知っている。・・・たぶん、松浦理英子という作家さんはそんなにメジャーな人ではありません。寡作ですし、おそらく書く小説が広く一般受けするとも思えません。一般受けするにはあまりにナイーブで、繊細な人間模様を扱っているからです。

そんな中でも 『親指Pの修行時代』 は、かなり読まれた小説です。右足の親指がペニスになってしまった女性の遍歴を綴ったもので、「ペニスを男根主義から解放する」 ことを謳った小説なのですが、この本を憶えておられる方はいるでしょうか。

松浦理英子が書く小説のテーマは、所謂 「ジェンダー」 です。「ジェンダー」 とは社会的性別、男女が補完的に分業する本来的な人間関係のあり方、と定義されています。彼女はこのテーマに拘り、一貫して性愛における 「性器結合中心主義」への異議を唱え続けています。

何だか物々しい言い方ですが、要は 「セックスだけが関係のすべてではないですよ」 ということを書き続けている人なのです。『奇貨』 に登場する男女は、そんな、世の中からみるとマイナーな性向を持った、しかしどこにもいる 「まじめ」 で 「まとも」 な人物です。
・・・・・・・・・・
本田さんは、45歳の男性で小説家。35歳になる七島美野と2LDKのマンションの部屋をシェアして暮らしています。二人は内縁関係でも何でもなく、本田さんのマンションに、七島が家賃を払って間借りしているだけの関係です。

七島の恋愛や欲情の相手はすべて同性、つまりレズビアンで、本田さんは全くの対象外です。ただ会社の同僚時代から妙に気が合うのが縁で、現在に至っています。本田さんは本田さんで、男性が持つ本来的な性欲に欠ける人物で、七島は好ましい女性なのですが触れたいと思う存在ではありません。

本田さんは、七島に性欲を感じないと言います。そもそも恋愛感情というものがよく分からないと言うのです。セックスやキスはしたくならないけれど、男よりも女が同じ空間にいるだけで体が喜ぶという意味で、本田さんにとって七島はとても貴重な人物でした。

本田さんの説明では、犬猫ほど近しくはなく、小鳥とかペットになる爬虫類くらいの距離感 - トルコ石みたいに真っ青なヤモリ 「ブルーゲッコー」 のような感覚だと言います。手元に置いて、眺めているのが丁度よい加減なのだと。

現在の七島にとって最大の関心事は、会社の同僚・寒咲晴香でした。七島がレズビアンであることを感じ取った寒咲は、しきりに七島を誘うように挑発しますが、それ以上決して自分からは近づこうとしません。寒咲の欲望はうつろで、掴みどころがありません。

クラブ・イベントの帰り、七島の部屋で二人は遂に性行為に及ぶのですが、寒咲はつき合ってほしいという七島の申し出をはっきり断ります。以後連絡は途絶え、避けられているような気配がします。自分から散々誘っておきながらの仕打ちに、七島の怒りは収まりません。

寒咲が異動先の台湾支社から戻った3年後、再び七島の怒りに灯がつきます。しかし、七島の怒りも微妙ではあります。自分を袖にした恨みもさることながら、あわよくばもう一度縁りを戻したいという願いを含んだ怒りでもありました。願望の分だけ、七島は余計に苛立ちます。

久しぶりに寒咲と顔を合わすことになった七島の心境を、本田さんが問いただす場面があります。ここでの二人の会話が、何とも絶妙です。仲のいい二人が、何の遠慮もなく、見栄も張らず、思ったことを思ったなりに口にしているやり取りがみごとです。

少なくとも、45歳の男と35歳の女がする会話ではありません。明け透けで、単純で、幼稚な会話です。その分、知り合いが近くでダベっているような親近感と自然な流れに惹き込まれます。二人の傍にいて 「そうだ、そうだ」 と頷いてしまうような近さです。

「七島、おれにおまえの熱くて濁った濃い感情を分けてくれ。」
本田さんは、七島の怒りが愛おしくて仕方ありません。その怒りをぶつける相手が、誰でもなく自分であることに無上の喜びを感じています。本田さんにとって七島は 「奇貨」、珍しい品物や人材と同じ、”ヤモリ以上” に何としても取っておきたい貴重な存在なのでした。

ちょっと重い話かなと思いつつ読み始めたのですが、予想外に軽やかで、抑制の効いた文章は心地よいものでした。何より、本田さんがいい。いかにも淡泊で 〈攻め〉 欲がなく、完全に 〈受け〉 の姿勢を貫いているのが潔く清々しい感じがします。

最後にちょっとしたヘマをしてしまう本田さんですが、七島も心から本田さんを責めたりはしません。本田さんは、七島が仲良くなった女友だちのヒサちゃんと七島の関係が気になって仕方ありません。よって、自分の可愛いブルーゲッコーが独り占めされるんじゃないかと気を揉んで、本田さんが年甲斐もなく嫉妬した挙句の仕業だと、七島はすっかり気が付いています。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆松浦 理英子
1958年愛媛県松山市生まれ。
青山学院大学文学部仏文科卒業。

作品「葬儀の日」「乾く夏」「ナチュラル・ウーマン」「親指Pの修行時代」「犬身」など

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