『三面記事小説』(角田光代)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2015/03/17
『三面記事小説』(角田光代), 作家別(か行), 書評(さ行), 角田光代
『三面記事小説』角田 光代 文芸春秋 2007年9月30日第一刷
「愛の巣」:夫が殺した不倫相手を自宅の床下に埋めたまま、26年も暮らしていた事件。
「ゆうべの花火」:既婚の男を愛するあまり、ネットで相手の妻の殺害を依頼した女の事件。
「彼方の城」:38歳の女が、16歳の男子高校生を自宅に誘い込んで淫らな行為をした事件。
「永遠の花園」:市立中学の女子生徒2人が、男性の担任教諭の給食に薬物を混ぜた事件。
「赤い筆箱」:男が押し入り、期末テストの勉強中の二女を包丁で刺して逃走した事件。
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「介護疲れで母親殺害容疑」平成18年2月3日付朝日新聞より
河川敷で車椅子の女性が発見され、死亡が確認された事件で、警察は女性を殺害したとして、近くに住む長男を殺人容疑で逮捕した。長男は病気がちの母親と2人暮らしで、「介護に疲れて、発作的にやってしまった」と供述しているという。
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6つの短編の一番最後、「光の川」の題材となった記事です。角田光代はたったこれだけの記事から、まるで見てきたかのようにリアルなフィクションを仕立て上げます。読み進めるうちに胸が詰まり、物が言えないほどの切迫感に圧倒されます。哀しさを突き抜けて、何も考えられず、頭の中が真っ白になってしまうのです。
6編の中で、この作品を一番に挙げる人は少ないかも知れません。事件に良いも悪いもありませんが、話題性としてはやはり地味なものです。認知症に限らず介護に関わる悲劇はあちこちで似たような事件が起こっていますが、どれもが三面記事以上に大きく扱われることはありません。
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じつのところ輝男は、母親のたつ子の異変に薄々気が付いていました。その予感を頭の外へ追いやっていただけです。沸かせば風呂にも入るし、近所の友人ともにこやかに接しています。気のせいだと思いたくて、異変を無理やりいつも通りの範疇に押し込めてしまっていたのです。
それがいよいよ顕著なものになり、夜の徘徊が始まるまでになります。輝男は実家に戻ることを決心し、避けていた介護申請を済ませ、病院にも連れて行きます。母親に下された診断は中度のアルツハイマー型認知症、要介護2の判定でした。
この頃輝男はまだ仕事をしており、週2回のデイケア以外の平日はたつ子が一人で留守番をしています。たつ子は「まだらぼけ」の状態で、普通にみえるときもあり、それで油断すると、たちまち厄介な事件が起きます。
近所で借りた1万円を忘れてしまう。ガスの火をかけたまま忘れてしまい、小火騒ぎになる。全く覚えのない健康器具が次々と届く。新興宗教の勧誘人から「御利益のある壺」を買ってしまう。・・・そして現在、おそらくたつ子は輝男が誰だか分からなくなっています。
大小の排泄物でトイレを汚し、夜にはそのトイレの場所が分からなくなります。生ごみをなぜか家のあちこちにしまい込むようになり、いやな臭いが充満します。夜中に外へ出ようとすることも再三で、輝男は仕事を続けることに限界を感じ始めています。
デイサービスを嫌がるのを無理やり玄関へ連れて行こうとしたはずみで、仰向けに倒れたたつ子は大腿部骨折の重傷で入院することになります。「家に帰りたい。帰れないなら、死んだほうがいい」と訴えるたつ子を前に、輝男は途方に暮れ、なすすべがありません。
輝男の姉・裕子は、輝男ばかりを贔屓したたつ子を憎んでいます。予想通り、介護の手助けをするつもりなど一切ありません。自分かたつ子か、どちらかの電池が切れるまで今のままを続けるか、それとも・・・。悩んだ末、輝男はとうとう会社へ辞表を提出します。
「あのねテルちゃん、私の病気がもっと悪くなったら、死なせてほしいの」・・・輝男は、喉から手を突っ込まれ、心臓を握り潰されたような気持ちになります。
期待した生活保護申請は、二度ともに却下されます。最初は輝男の失業給付金が収入とみなされ、姉がいることを指摘されます。何より輝男がまだ40歳を過ぎたばかりで十分働けるではないかと言われてしまいます。給付金の支給はすぐにも切れ、姉はあてにはできない。働けないから申請しているのに・・、いくら訴えても、結果が覆ることはありません。
「働けない重大な理由とみなされない」というのが二度目の却下理由。「おれたちに死ねって言うのかよ!」と怒鳴りはすれど、一方では、一日に何人もやって来るうちの一例でしかないんだろうとも思う輝男です。もはや、どこか人ごとのように思えるのでした。
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私の親父は、間に1年半を挟んで二度の入院と施設での介護の末77歳で亡くなりました。輝男とは比べものになりませんが、通算すると4年余りの日々を介護と病院通いで過ごしたことになります。
最初の入院から自宅に戻って二週間ほどは、二人で風呂に入りました。服を脱がせるところから始まり、体をきれいに洗い、しばらくの間湯に浸かった後、今度は脱衣場で体を拭いて服を着せる・・・、親父は何も言いません。きっと恥ずかしかったのでしょう。
家にいる間は、下の世話で家内が苦労しました。もよおしてからトイレにたどり着くまでに大概漏らしてしまうのです。ベッドも濡れて、いくらきれいにしても臭いが完全に消えません。親父は最初が軽度、二度目が重度の脳梗塞でした。
入院と治療に費用が嵩んで、亡くなる直前には手持ちの現金がほぼ底をつくあり様でした。この間、何より私と家内を憂鬱にしたのは、この状況がこの先いつまで続くのだろうという、出口が見えない不安と重苦しさです。
回復が期待できず、もう話すことも起き上がることもなくただベッドに横たわるだけの親父を前にして、ただ茫然とするばかりでした。
ただ、私には家内と息子がおり、近くには応援してくれる姉もいたのです。
輝男は、独りきりです。もし輝男が私だったとしても「・・なら、どうすりゃいいんだ!!」と叫ばずにはいられなかったでしょう。感謝こそすれ、たつ子は決して輝男を責めはしないだろうなと思ってしまうのは、私だけではないはずです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ツリーハウス」「かなたの子」「私のなかの彼女「笹の舟で海をわたる」「幾千の夜、昨日の月」ほか多数
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