『昨夜のカレー、明日のパン』(木皿泉)_書評という名の読書感想文
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『昨夜のカレー、明日のパン』(木皿泉), 作家別(か行), 書評(や行), 木皿泉
『昨夜のカレー、明日のパン』木皿 泉 河出文庫 2016年2月20日25刷
7年前、25歳で死んでしまった一樹。遺された嫁・テツコと今も一緒に暮らす一樹の父・ギフが、テツコの恋人・岩井さんや一樹の幼馴染みなど、周囲の人物と関わりながらゆるゆるとその死を受け入れていく感動作。本屋大賞 第2位&山本周五郎賞にもノミネートされた、人気夫婦脚本家による初の小説。書き下ろし短編 「ひっつき虫」 収録! (河出文庫)
私のおススメは、「山ガール」。”ガール” は小川里子さんといい、ギフは彼女のことを「師匠」 と呼びます。
物語は、以下のような出来事をきっかけに始まってゆきます。但し、すぐにではありません。大人になった一樹が結婚し、幸せだった家族が突然不幸に見舞われた後に続くことになります。思いもしない、遠い先のことです。
「明日のパン、買ってきて」
と夕子に言われ、本から顔を上げ、一樹は 「ええっ」 っと顔をしかめた。
「ここ、読んじゃってから」
なおも読み続けようとしたが、容赦なく本を取り上げられてしまった。
「いつものやつね」
と追いやられる。
一樹はしかたなく立ち上がり、
「アイス、買っていい? 」
と聞くと、冷蔵庫に、肉やら野菜を詰めながら母は、
「私、ピーチ」
と叫んだ。
いつものパン屋で、五枚切りを一斤買い、それを雨に濡らさないように注意深く歩いていると、突然、後ろからばしゃばしゃと水たまりをけちらす音が近づいてきて、おかっぱ頭の小学校低学年ぐらいの女の子が、
「入れて下さい」
と傘の中に飛び込んできた。
一樹が驚いていると、女の子も驚いた様子だった。傘の柄が婦人物だったので、女の人だと思い込んでいたのだろう。でもすぐ、人懐っこい顔でニッと笑ってみせた。よく見ると、その子は、子犬を抱いていた。
「この傘、いい音がするね」
女の子が、一樹を見上げ、大人びた様子でそう言った。下からにらむような黒目がちの目で、
「私のも、いい音なんだよ」
と自慢した。女の子は、かすかにカレーの匂いがした。
「今日のお昼、カレーだったの? 」
一樹が聞くと、女の子はへへと笑って、
「ゆうべのカレー」
と歌うように言った。
「その犬、何て名前? 」
一樹が尋ねると、
「まだ決めてない」
と、女の子は子犬を優しくなでた。
「ふーん、そうなんだ」
「お兄ちゃんが持っているのは、何て名前? 」
女の子は、一樹が大事そうに持っているパンを見て聞いた。一樹は、ちょっと考えて、
「明日のパン」
と答えた。
女の子は、突然、
「私、こっちだから」
とスカートに子犬をくるむと、雨の中へ飛び出して行った。細い足がぴょんぴょんと、泥をけり上げ走ってゆく。急に女の子は立ち止まると、こちらを向いて、
「パンって名前にしていい? 」
と大声で聞いた。
「いい名前だと思うよ」
一樹が叫ぶと、女の子は、また激しい雨をものともせず走り抜けて行った。その後ろ姿を一樹は、呆然と見送った。何だったんだ、今のは。一瞬、自分も小さな子犬を抱き上げたような、不思議な気持ちだった。
この日の話は、誰にもしていない。していないが、その後もなぜかずっと心に残った。雨の中、水たまりをはねのけるように、地面をけっていた、あの小さな足は何だったんだろう。(本文より/一部割愛)
この本を読んでみてください係数 85/100
◆木皿 泉
1952年生まれの和泉努と、57年生まれの妻鹿年季子による夫婦脚本家。
作品 「すいか」「野ブタ。をプロデュース」「セクシーボイスアンドロボ」「Q10」「木皿食堂」「6粒と半分のお米 木皿食堂2」他多数
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