『そこへ行くな』(井上荒野)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/09 『そこへ行くな』(井上荒野), 井上荒野, 作家別(あ行), 書評(さ行)

『そこへ行くな』井上 荒野 集英社文庫 2014年9月16日第2刷

長年一緒に暮らす男の秘密を知らせる一本の電話、
中学の同窓生たちの関係を一変させたある出来事・・・・
見てはならない 「真実」 に引き寄せられ、平穏な日常から足を踏み外す男女を描く短編集。第6回中央公論文芸賞受賞作。(集英社文庫)

遊園地、学校、ベルモンドハイツ401、サークル、団地、野球場、そして、病院 - 。

そこへ行くな。行けば、それがあなたの命取りになる、取り返しがつかないことになる、ということが書いてあります。

何気に過ぎる日常が当然のように思えていたものが、まるで違う景色に変ってしまう。信じていたものの一々が、実はそうではなかったのだと知らされる。見過ごせば済むものを、

往々にして人は行ってはならない場所へ行き、見てはならないものを見たくなります。

遊園地

二人が出会ったのは十二年前のことでした。「私」 は二十九歳、彼は二十八歳でした。出会うとすぐに一緒に暮らしはじめ、今では七歳になる息子・太郎がいます。

三人はごく普通の家族ではあったのですが、今にして思えば、実はその “気配” はありありとあったのでした。「私」 はそれに気付きながらも、敢えて気付かないふりをしています。気にするには些細なことに思え、なにより今が幸せだったからです。

そんな折、見知らぬ女から電話がかかってきます。

川野純一郎の本当のことを教えます。

機械みたいな一本調子で、女はそう言ったのでした。女の口から出たある町の名前。ある日、純一郎が出かけたあと玄関で拾った一枚の紙切れ - 。

女からの電話のあと、私は財布の中からその紙切れを探し出した。控えに記された所番地と、女に告げられメモをした所番地は同じだった。その事実より、その控えを今まで自分が捨てずにとっておいたのだということに、私は動揺した。控えを保管しておいたのは、いつかこういう日が来ることがわかっていたからだった。くぐもった声の女が電話をかけてくるずっと前から、自分が疑いはじめていたことに、私は気がついたのだった。

そのときすでに純一郎さんは、今の仕事をしていた。芸能プロダクション所属のマネージャー。奇妙に思えるけれどそれも純一郎さんの真実のひとつだ。どのみち私には別世界の仕事で、だからそれは、様々な不自然さの理由にもなった。

たとえば純一郎さんが私の友だちに会うことはあるけれど、私が彼の友人知人に会う機会がないこと。純一郎さんの両親は早くに亡くなったというが、その墓を訪れたこともないし、彼の親戚ともまったく往き来がないこと。そうして、ともに暮らしはじめても太郎が生まれても、籍を入れようとしないこと。

「籍なんてどうでもいいよな、紙切れ一枚のことじゃないか」- 結局その言葉でいつも 「私」 は自分を納得させるのでした。十分に幸せなのだからと。「私」 がこの世で何よりも必要なものは純一郎さんで、それはもう手に入っているのだからと。

純一郎さんはやさしい人だ。私は思う。たぶん彼と一緒になってから、私にとっての 「やさしい」 は 「弱い」 という意味を含むものになっているけれど、それでもそれは、私に純一郎さんを愛させる理由にほかならない、と考える。

純一郎さんは太郎のために、じつはひどく心を痛めている。ほとんど動揺しているのだ。どうしていいかわからなくて、でも何かせずにはいられなくて、そうして、彼が思いついたのが、遊園地だったのだろう。

※この遊園地でする 「私」 との会話で、純一郎は小さなミスとも言えないミスを犯します。それだけならまだよかったものの、ミスをミスと気付かせないように更にミスを重ねます。

実はその時の 「私」 にとって、そんなことは今更どうでもよかったのです。なぜなら、先から 「私」 は彼に対し 「言いたいこと」 があり、それを口に出して言う機会を、今か今かと待ち構えていたのですから。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆井上 荒野
1961年東京都生まれ。
成蹊大学文学部英米文学科卒業。

作品 「潤一」「虫娘」「ほろびぬ姫」「切羽へ」「つやのよる」「誰かの木琴」「ママがやった」「赤へ」「その話は今日はやめておきましょう」「あちらにいる鬼」他多数

関連記事

『相棒に気をつけろ』(逢坂剛)_書評という名の読書感想文

『相棒に気をつけろ』逢坂 剛 集英社文庫 2015年9月25日第一刷 世間師【せけんし】- 世

記事を読む

『誰? 』(明野照葉)_書評という名の読書感想文

『誰? 』明野 照葉 徳間文庫 2020年8月15日初刷 嵌められた、と気づいた時

記事を読む

『沈黙博物館』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『沈黙博物館』小川 洋子 ちくま文庫 2004年6月9日第一刷 耳縮小手術専用メス、シロイワバイソ

記事を読む

『少女』(湊かなえ)_書評という名の読書感想文

『少女』湊 かなえ 双葉文庫 2012年2月19日第一刷 親友の自殺を目撃したことがあるという転校

記事を読む

『そこにいるのに/13の恐怖の物語』(似鳥鶏)_書評という名の読書感想文

『そこにいるのに/13の恐怖の物語』似鳥 鶏 河出文庫 2021年6月20日初版

記事を読む

『砕かれた鍵』(逢坂剛)_書評という名の読書感想文

『砕かれた鍵』逢坂 剛 集英社 1992年6月25日第一刷 『百舌の叫ぶ夜』『幻の翼』に続くシリ

記事を読む

『捨ててこそ空也』(梓澤要)_書評という名の読書感想文

『捨ててこそ空也』梓澤 要 新潮文庫 2017年12月1日発行 平安時代半ば、醍醐天皇の皇子ながら

記事を読む

『整形美女』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文

『整形美女』姫野 カオルコ 光文社文庫 2015年5月20日初版 二十歳の繭村甲斐子は、大きな瞳と

記事を読む

『飼い喰い/三匹の豚とわたし』(内澤旬子)_書評という名の読書感想文

『飼い喰い/三匹の豚とわたし』内澤 旬子 角川文庫 2021年2月25日初版 下手な

記事を読む

『三度目の恋』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『三度目の恋』川上 弘美 中公文庫 2023年9月25日 初版発行 そんなにも、彼が好きなの

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『朱色の化身』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『朱色の化身』塩田 武士 講談社文庫 2024年2月15日第1刷発行

『あなたが殺したのは誰』(まさきとしか)_書評という名の読書感想文

『あなたが殺したのは誰』まさき としか 小学館文庫 2024年2月1

『ある行旅死亡人の物語』(共同通信大阪社会部 武田惇志 伊藤亜衣)_書評という名の読書感想文

『ある行旅死亡人の物語』共同通信大阪社会部 武田惇志 伊藤亜衣 毎日

『アンソーシャル ディスタンス』(金原ひとみ)_書評という名の読書感想文

『アンソーシャル ディスタンス』金原 ひとみ 新潮文庫 2024年2

『十七八より』(乗代雄介)_書評という名の読書感想文

『十七八より』乗代 雄介 講談社文庫 2022年1月14日 第1刷発

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑