『蛇を踏む』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2016/12/23 『蛇を踏む』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(は行)

『蛇を踏む』川上 弘美 文芸春秋 1996年9月1日第一刷


蛇を踏む (文春文庫)

 

「ミドリ公園に行く途中の藪で、蛇を踏んでしまった。」

こんな書き出しを読んで、そのまま本を閉じてしまう人がいるのでしょうか。そう思うくらい瞬時に読者を惹き込んでしまう、鮮やかな始まりの文章です。

『蛇を踏む』は、川上弘美が38歳のとき、芥川賞を受賞した小説です。この人らしい淡々とした語り口調で、日常の些末な風景が綴られていくんだろうなと勝手に想像しながら読み始めた途端、踏んづけた蛇がいきなり話し出すのに虚を衝かれました。

正直に言いますと、読んだあと感想を書くか書くまいか、一晩考えました。というか、ちゃんとした感想が書ける程度に理解できたのかどうかがよく分からなくて、川上弘美が伝えたいことを正しく書ける自信がなかったのです。
・・・・・・・・・・
「踏まれたらおしまいですね」と蛇は言い、それから50歳くらいの人間の女性になって、この物語の主人公・サナダさんの住む部屋の方へ歩いて行きます。

サナダさんは、女学校の理科の教師を4年で辞めて、今はカナカナ堂という数珠屋の店番をしています。店主のコスガさんは仕入れやお寺さんの相手、数珠づくりはコスガさんの奥さんがしています。カナカナ堂は3人だけの、小さな数珠屋です。

サナダさんが仕事を終えて自分の部屋へ戻ると、絨毯の中ほどに50歳くらいの見知らぬ女が座っています。さては蛇だなと思うサナダさんですが、「おかえり」とあたり前の声で言われて、思わず「ただいま」と返してしまいます。

女はサナダさんの好物のつくね団子やいんげんの煮物、おからや刺身を並べて、ビールまで用意します。まるで前からこの部屋にいたように、二人はビールを飲みながら世間話をします。女は自分のことを、サナダさんのお母さんだと言います。

お母さんは、故郷の静岡にいます。当人は日本人の平均的な顔で、女は西洋的な彫りの深い顔をしています。睫毛が長く、頬骨が高くて目や口のまわりの皴が皮膚の薄さを感じさせます。サナダさんは心配になり、実家へ電話をしますが、お母さんに変わりはありません。

「もう寝るわ」と突然に言うと、女は部屋に一つだけある柱にからまります。女の体は薄くなって柱にぴたりと貼りつき、するすると天井に登って行きます。登り切ると落ちつき、いつの間にか蛇に戻っています。天井に描かれたような形になって目を閉じた蛇は、いくら話しかけても、長い棒でつついても、もう決して動くことはありません。
・・・・・・・・・・
どうです、みなさん? ここまではほんのサワリで、良いか悪いかといったことではなく、何より蛇が口をきいて人間の女に変身するというのが肝要で、これは何だか面白そうだと思うか、あり得ない状況に馴染めず読むのをやめるか、読者は早々に二者択一を迫られます。

私はたまらず、ネットで芥川賞の選評を検索して選者の評価を読んでみました。そして、ちょっとほっとしました。11人の選評がバラバラなのです。概ね高い評価(受賞作ですから当然)ですが、視点はそれぞれ微妙に異なっていて、蛇が変身するという設定そのものを否定したコメントもあります。

書いた本人の真意をピタリと言い当てるなど、中々できるものではありません。特にこのような小説の場合、内容に秘められた意図とか比喩を必要以上に詮索するような読み方ではなく、素直にページを繰る方が作者の本意に近づくような気がします。

川上弘美の小説が支持されるのは、何と言っても文章の巧みさと物語のいかにも自然な流れではないでしょうか。文章を巧みに書くとは、どれだけ平易に(巧みさを気付かせずに)書くかの技術のことですし、無いことをさも在るように読ませるのが物語なら、『蛇を踏む』という小説はみごとにそれらを体現していると思います。

蛇は、思いの外浸食しています。サナダさんだけでなく、コスガさんの奥さんにも憑りついています。サナダさんはコスガさんのお伴で、たまに甲府の願信寺というお寺まで数珠の納品に出かけるのですが、住職の奥さんが実は蛇の化身だったりします。

サナダさんの部屋に居着いた蛇は、消えるどころかますます存在感を増し、サナダさんに「蛇の世界へ入ってこい」としきりに誘います。

そういえば、他人との間にはかならず感じる壁 - その壁が蛇との間にはないことに、(実は)サナダさんは端から気付いています。

単行本には「蛇を踏む」の他に、「消える」「惜夜記(あたらよき)」が収められています。

 

この本を読んでみてください係数 80/100


蛇を踏む (文春文庫)

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。高校の生物科教員などを経て作家デビュー。俳人でもある。

作品 「溺レル」「センセイの鞄」「真鶴」「風花」「これでよろしくて?」「パスタマシーンの幽霊」「どこから行っても遠い町」他多数

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