『図書室』(岸政彦)_書評という名の読書感想文

『図書室』岸 政彦 新潮社 2019年6月25日発行

図書室

あの冬の日、大阪・淀川の岸辺で、私たちは世界の終わりに立ち会った。

定職も貯金もある。一人暮らしだけど不満はない。思い出されるのは、小学生の頃に通った、あの古い公民館の小さな図書室のこと -

犬や猫や風と同じに/川上未映子

たとえば電車の中で、笑顔で揺られている家族を見たとき。古い瓦がただ光っているのを見たとき。踏切をゆっくりと横切る黒猫を見たとき。駅前の数えきれない人々にまぎれて歩くとき。自分はいま確かに生きていて、現在の出来事を見ているはずなのに、誰かの、何かの記憶の中にいるように感じることがある。つまり、いま目に映っている光景は同時にその光景の過去でもあるのだから、その意味で、いま生きている人にこうして会っているということは、じつは死者と会っていることと変わらないのではないだろうか。子どもの頃から誰にもうまく伝えることのできなかったそんな感覚が、物語になって目の前に差し出された気がした。岸政彦の二作目の小説集 『図書室』 は、私にとって奇跡のような一冊である。(以下略/新潮社ウェブサイトより)

図書室/岸 政彦  第32回三島賞候補作

 雨が降ってきた。洗濯物を取り込もうとして、小さなベランダに出た。古い団地のベランダの庇は浅くて、すぐに洗濯物が濡れてしまう。女のひとりぐらしにはそれほどたくさんの洗濯物もなく、数枚の肌着やタオルをハンガーから外して部屋のなかに投げ入れる。
そのままぼんやりと外を見る。下の道路をゆっくりと宅配便の車が通り過ぎていく。雨の日曜日にごくろうさまやなあと思う。どんな荷物を運んでいるんだろうか。昔は宅配便は、誰かが誰かに送るものだった。何かを買って、店で包んでもらって、宛先を書く。何かのお祝いとか、プレゼントとか、お中元とかお歳暮とか、そういうときに、誰かに何かをあげたくて送っていた。いまは自分でネットで注文したものが自分に届くだけになった。
それでもやっぱり、誰かから誰かに届くものもたくさんあるだろうし、雨の日曜日でも、そういうものがこの世界をたくさん行き来していて、そしてそれを運ぶひとたちもこんなにたくさんいる。
 雨を眺めていたら、また猫がほしくなってきた。ペットショップで透明なケースに入っているところは、あまりにも可哀想で見に行く気がしないので、いつか道で子猫を拾いたいとずっと思ってるけど、そういうときに限ってなかなか出会わない。子猫を捨てるひとも少なくなったんだろうか。最近は玄関先につながれたままになっている犬も、ほとんど見なくなった。でもたまにいる。すごく可哀想だなと思う。
 幸せな犬や猫をみると自分も幸せになるから、できればこの小さな団地の小さな部屋で猫を飼って、そしてここで幸せに暮らしてほしい。どんな猫でもいいから、一匹の猫を (あるいは二匹の猫を) 徹底的に幸せにしてあげたいなと思う。日当たりのよい場所に小さな寝床をつくって、そこに可愛らしい柄の、柔らかい毛布を敷いてあげたい。猫は自分が、ありえないほど幸せであることを自分でも気づかないまま、ゆっくりと手足をのばして、ぐっすりと眠るだろう。私もそれを見てとても幸せになれる。純粋に幸せな存在は、自分が幸せであることに気づかない。溺愛したい。何かを溺愛する、ということを久しくしていない。何かを溺愛したい。それで振りまわされたり、困らされたり、たまに泣かされたりしたい。
 子どもの頃のことで思い出すのはいつも、たくさんの猫に抱かれてこたつで丸くなって寝ているところだ。小さいころ、うちにはいつも猫がいた。(本文より)

こんなふうに静かに、物語は始まってゆきます。期待してはいけません。期待にかなう特別なことは何ひとつ書いてありません。

但し、だからこそ、おそらくあなたにも、似た記憶がきっとあるはずです。

何も起こらない - わけではありません。むしろいろいろあった、あとのことが書いてあります。五十歳になった自分が五十歳ではないような、彼方になった記憶が目の前にあるような。遠い昔と今とが変わらぬような、そんな話が書いてあります。

喜びとめまい。四十年前と、いま目の前で息をしている猫。
別れとおそれ。あの光と、もういなくなった人たち。
感情や記憶や時間のみわけがつかなくなって、
何かがただ 〈ある〉 としか言いようのない一瞬がある。
岸政彦は、その邂逅に耳をすます。
彼によってそれが言葉にされるとき、わたしの胸は震え、
前触れもなく、こうして生きていることの意味としての跡を残す。
(川上未映子)

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図書室

◆岸 政彦
1967年生まれ。
大阪市立大学大学院文学研究科単位取得退学。社会学者。

作品 「同化と他者化 - 戦後沖縄の本土就職者たち」「街の人生」「断片的なものの社会学」「ビニール傘」など

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