『おめでとう』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『おめでとう』川上 弘美 新潮文庫 2003年7月1日発行

おめでとう (新潮文庫)

いつか別れる私たちのこの一瞬をいとおしむ短篇集

最終話 「おめでとう」  

西暦三千年一月一日のわたしたちへ

 寒いです。ゆうべはずいぶん風が吹いたので、今朝も少し波が高い。風は、こわいです。風が吹くと、いろいろな音がくる。ボウボウボウボウ。ざんざんざん。ルルルル。ゆんゆん。いつもない音が、どこからかやってくる。いつもないものは、こわい。
 寒いです。飯を炊いて干し魚を少し噛みました。飯を炊く匂いがすき。秋の夜、眠く眠くなったときの床の中みたいな匂いがします。
 芋と粟が少なくなってきたし、米はほとんどもうないので、飯は薄い。今日は魚を獲ろうと思うので、飯はあんまり食べずにとっておきます。
 魚は二匹獲れた。大きいのと小さいの。今日は晴れているので、遠くが見える。晴れている日は遠くが見えて、曇っている日は遠くは見えないけれど遠くの音が聞こえます。
 トウキョウタワーが見える。トウキョウタワーまでは歩いて一日かかる。前に行ってみた。ここから見るときれいだけれど、近くに行くとぼろぼろでした。誰もいなくて、さびしい場所でした。このあたりには何人か住んでいるので、いい。
 寒いです。こんにちは。あなたに会えました。あなたに会うのがすきです。あなたと喋るのがすきです。干し魚はおいしいね。きのう大きな入日を見ました。入日は、赤い。冬のはじめの葉よりも赤いです。
 あなたと、少し抱き合いました。腕をあなたにまわして、あなたも腕をまわしてくれて、ぎゅっとすると、あたたかいです。魚は岩の上に置いて、しばらくぎゅっとしました。あなたは草の匂いがする。
 誰かに会うのは三日ぶりです。四日かもしれません。七日かもしれない。日を数えたり、言葉を喋ったりするのをやめてはいけないと、あなたのおとうさんが言った。この島には昔はもっともっとたくさんの誰かが住んでいた。今は少ししかいない。
 トウキョウタワーがきれいです。近くに行くとあんなにぼろぼろなのに。遠くのものはふしぎ。ふしぎでこわい。
 魚をあなたにあげたいです。ナイフで開いて、海の塩をふります。二人で、食べました。飯も全部食べました。二人で食べると、一人で食べるよりも、いい。小さい魚は干します。動物や鳥がとってしまわないよう、注意して干します。
 歌をうたいました。歌はあなたのおとうさんに教わった。歌の音はふしぎ。遠くからきたような音です。自分のなかに、遠くのものがあるのは、ふしぎ。歌を三つ歌いました。

 少し寒いです。今日は新しい年なんだとあなたが言いました。新しい年は、ときどきくる。寒くなると、くる。
 おめでとう、とあなたは言いました。おめでとう。まねして言いました。それからまた少しぎゅっとしました。
 忘れないでいよう、とあなたが言いました。何を、と聞きました。今のことを。今までのことを。これからのことを。あなたは言いました。忘れないのはむずかしいけれど、忘れないようにしようとわたしも思いました。
 さよなら。あなたが行ってしまったので、暗くなる前に畑を少し耕しました。入日が赤いです。火をおこします。飯を薄く炊いて、かめの水を飲みました。
 この島にはもっとたくさんの誰かがいたんだと、あなたのおとうさんは教えてくれました。もっとたくさんの誰かは、どんな人たちだったんだろう。その人たちのことを忘れずに今もおぼえている人は、いるんだろうか。どこか遠くに、いるんだろうか。
 寒いです。おめでとう。あなたがすきです。つぎに会えるのは、いつでしょうか。(全文)

小田原の小さな飲み屋で、あいしてる、と言うあたしを尻目に生蛸をむつむつと噛むタマヨさん。このたびは、あんまり愛してて、困っちゃったわよとこちらが困るような率直さで言うショウコさん。百五十年生きることにした、そのくらい生きてればさ、あなたといつも一緒にいられる機会もくるだろうし、と突然言うトキタさん・・・・・・・ぽっかり明かるく深々しみる、よるべない恋の十二景。(新潮文庫)

この本を読んでみてください係数 85/100

おめでとう (新潮文庫)

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。
お茶の水女子大学理学部卒業。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「水声」「どこから行っても遠い町」「大きな鳥にさらわれないよう」他多数

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