『悪寒』(伊岡瞬)_啓文堂書店文庫大賞ほか全国書店で続々第1位

公開日: : 最終更新日:2024/01/09 『悪寒』(伊岡瞬), 伊岡瞬, 作家別(あ行), 書評(あ行)

『悪寒』伊岡 瞬 集英社文庫 2019年10月22日第6刷

男は愚かである。
ある登場人物の言葉を借りれば
中年男の鈍感さは、それだけで犯罪なのかもしれない。伊岡瞬悪寒を再読して最初に浮かんだのは、そんな思いであった。まことに男は愚かである。気をつけなければ。

主人公の藤井賢一は四十二歳の会社員である。第一部の1に描かれるいくつかの場面だけで、彼が失意の生活を送っていることがすぐにわかる。彼がいるのは山形県酒田市で、支店長代理という肩書で置き薬の営業をする部署に属している。飛び込み営業に明け暮れる毎日だが、なかなか成果を出すことができない。それも当然で、賢一は生粋の営業社員ではなく、東京の本社から系列会社のその部署に飛ばされてきたのだ。

賢一がこんな境遇に甘んじているのは、お察しの通り、本社在籍時にあることが起きたからだ。それが何かを明かす前に、作者はさらなる辛い状況を重ねてくる。不本意な転勤を強いられた賢一は単身赴任の身の上である。妻の倫子からは出費が嵩むので毎月戻ってこなくていいと言われ、しかもようやく年末年始に帰ったら夫婦の営みまで拒絶される。辛い節約をしているのは娘の高校進学費用を捻出するためなのに、その香純からも 「電話でも話したくないので、用事のあるときはメールにしてくれ」 と国交断絶を突きつけられる。

四面楚歌とはこのことだ。そんなときに賢一は部下の若い女性に優しくされ、つい一緒に食事に行く約束をしてしまう。大丈夫か、自暴自棄になってないか、と読者が心配になったところで、ついにあることが起きてしまうのだ。

実は、ここからがミステリーとしての本番である。帯や裏表紙にもちょっと詳しいあらすじ紹介があるかもしれないが、できればいったん頭から消去していただきたい。その方が絶対に楽しめるからだ。この世界のどこにも居場所のない藤井賢一、これより下なんてないだろうというぐらいのどん底にいる中年男が、さらなる不幸に見舞われ、お先真っ暗な混乱の中に巻き込まれる。そのはらはら感覚をぜひ彼と共有してみてもらいたい。これぞサスペンスである。(以下略/杉江松恋の解説より)

藤井賢一が勤務している 「東北誠南医薬品販売」 - 略して 「東誠薬品」 - は、仙台市に本部を置き、いわゆる置き薬販売を生業にしています。家庭常備薬といわれる基本的なセットを、箱ごと家庭や事務所に置かせてもらい、月に一度訪問チェックして、使った分だけ代金を回収するというシステムです。

この東誠薬品は、ほんの八ヶ月前まで賢一が籍を置いていた、大手製薬会社 「誠南メディシン」 の系列会社ではあるものの、実際には直接の資本は入っておらず、いわば “孫会社” にあたります。

賢一が行けと命じられたのは、仙台の本部や山形市の総支社ならともかくも、たんに一営業所でしかない酒田支店の、”支店長代理” としてでした。支店長代理とは名ばかりで、賢一の仕事は (平社員と同じ) 外回りの営業で、彼は何程の成果も挙げらずにいるのでした。

※決して口には出せない中で、賢一にとって唯一の希望は “一日も早い前職への復帰” でした。ところが、あまりに愚直で優柔不断に過ぎる賢一は、遠く離れた家族にまで冷たくあしらわれ、どこにも居場所がないところまで追い詰められることになります。

何故、妻の倫子は自分を避けるのか。娘の香純も同様に、何故口をきかなくなったのか。その理由が、賢一には皆目見当が付きません。実は、賢一は知らない、気づきもしないことが山ほどあります。

(杉江氏には叱られますが、ちょこっとだけあらすじの続きを)

大手製薬会社社員の藤井賢一は、不祥事の責任を取らされ、山形の系列会社に飛ばされる。鬱屈した日々を送る中、東京で娘と母と暮らす妻の倫子から届いたのは、一通の不可解なメール。〈家の中でトラブルがありました〉 数時間後、倫子を傷害致死容疑で逮捕したと警察から知らせが入る。殺した相手は、本社の常務だった - 。単身赴任中に一体何が? 絶望の果ての真相が胸に迫る、渾身の長編ミステリ。(集英社文庫)

この本を読んでみてください係数 85/100

◆伊岡 瞬
1960年東京都武蔵野市生まれ。
日本大学法学部卒業。

作品 「いつか、虹の向こうへ」「代償」「もしも俺たちが天使なら」「痣」「本性」「冷たい檻」など

関連記事

『夢に抱かれて見る闇は』(岡部えつ)_書評という名の読書感想文

『夢に抱かれて見る闇は』岡部 えつ 角川ホラー文庫 2018年5月25日初版 男を初めて部屋に上げ

記事を読む

『沈黙博物館』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

『沈黙博物館』小川 洋子 ちくま文庫 2004年6月9日第一刷 耳縮小手術専用メス、シロイワバイソ

記事を読む

『報われない人間は永遠に報われない』(李龍徳)_書評という名の読書感想文

『報われない人間は永遠に報われない』李 龍徳 河出書房新社 2016年6月30日初版 この凶暴な世

記事を読む

『金魚姫』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『金魚姫』荻原 浩 角川文庫 2018年6月25日初版 金魚の歴史は、いまを遡ること凡そ千七百年前

記事を読む

『公園』(荻世いをら)_書評という名の読書感想文

『公園』荻世 いをら 河出書房新社 2006年11月30日初版 先日、丹下健太が書いた小説 『青

記事を読む

『木になった亜沙』(今村夏子)_圧倒的な疎外感を知れ。

『木になった亜沙』今村 夏子 文藝春秋 2020年4月5日第1刷 誰かに食べさせた

記事を読む

『肝、焼ける』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『肝、焼ける』朝倉 かすみ 講談社文庫 2009年5月15日第1刷 31歳になった

記事を読む

『男ともだち』(千早茜)_書評という名の読書感想文

『男ともだち』千早 茜 文春文庫 2017年3月10日第一刷 29歳のイラストレーター神名葵は関係

記事を読む

『かか』(宇佐見りん)_書評という名の読書感想文

『かか』宇佐見 りん 河出書房新社 2019年11月30日初版 19歳の浪人生うー

記事を読む

『白磁の薔薇』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『白磁の薔薇』あさの あつこ 角川文庫 2021年2月25日初版 富裕層の入居者に

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『教誨』(柚月裕子)_書評という名の読書感想文

『教誨』柚月 裕子 小学館文庫 2025年2月11日 初版第1刷発行

『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』 (堀川惠子)_書評という名の読書感想文

『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』 堀川 惠子 講談社文庫 

『セルフィの死』(本谷有希子)_書評という名の読書感想文

『セルフィの死』本谷 有希子 新潮社 2024年12月20日 発行

『鑑定人 氏家京太郎』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『鑑定人 氏家京太郎』中山 七里 宝島社 2025年2月15日 第1

『教誨師』 (堀川惠子)_書評という名の読書感想文

『教誨師』 堀川 惠子 講談社文庫 2025年2月10日 第8刷発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑