『ブエノスアイレス午前零時』(藤沢周)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『ブエノスアイレス午前零時』(藤沢周), 作家別(は行), 書評(は行), 藤沢周
『ブエノスアイレス午前零時』藤沢 周 河出書房新社 1998年8月1日初版
第119回芥川賞受賞作
舞台は、新潟の雪深い山間地にある一軒の温泉宿。カザマは東京の広告代理店に勤めるサラリーマンでしたが、所謂Uターンで、現在は地元の「みのやホテル」で働いています。生家は45年続く町で唯一の豆腐屋でしたが、カザマは後を継ぐかどうかを決めかねています。
温泉卵を作り、源泉用に立てた鉄板の屋根の雪を下す。それが彼の朝一番の仕事でした。地味な紺色のアノラックの胸には、黄色の刺繍で小さくホテルの名前が入っています。これを着てから、カザマはますます自分が硫黄臭くなったような気がしてなりません。
社長の竹村は、カザマの顔を 「桔梗の間、の顔」と言います。15年前に旧館の桔梗の間で手首を切って死んだ銀行員の顔によく似ていると。つまりは、それほどカザマは 「愛想がない」 顔をしているのでした。本人もまた、それをよく自覚しています。
みのやホテルの自慢は110坪のコンベンションホールで、どんな広告にも必ず斜め上に、男と女がダンスをしているシルエットが描かれています。客がまるで来なくなる冬の間、ホテルの経営を支えているのは、ダンスのパックツアーでした。
カザマは社交ダンスの踊りと音楽が、反吐が出るほど嫌いでした。観光バスの団体でやって来る50過ぎの男女が、一斉に派手な衣装に着替えてホールでモダンダンスを踊る。衣装のナフタリンとポマードや化粧品の匂いが充満する、ホールは濁った空気で・・・・・・・。
その様子は、まるでスワッピングパーティーをやっているようにも、いやに手入れされた犬の品評会にも思えるカザマでしたが、手の空いた従業員は全員ダンスの補助に入るのが宿の決まりで、社長と女将にとっては、それがこれ以上ない晴れの舞台なのでした。
観光バスの窓からサングラスをかけた若い女の顔が見えたと思ったのは、まるきりカザマの勘違いでした。ボイラー室の前で見かけたその女・ミツコは65歳から70歳くらいの老女で、薄紫色のニットスーツに身を包んでいます。サングラスをかけているのは、彼女の目が不自由なせいでした。
「わたし、サン・ニコラスに電報を打たないといけないの」とミツコは言います。カザマは、それが地名なのか名前なのかもわかりません。ただそれよりも先に気がついたのは、ミツコが 「いかれている」・・・・・・・ 痴呆が始まっている、ということでした。
気付かぬふりのままフロントへ案内しようと、カザマは肘を開いて、ミツコに掴まらせます。カーペットの廊下をゆっくり歩いていると、ミツコが喉の奥で小さく笑います。
「あのね・・・・・・・、この方、温泉卵の、においがするの・・・・・・・。いいわね」 「とてもいい感じなの。いいにおいなの。・・・・・・・ 硫黄の、においね。」
ミツコの主人は15年前、肺ガンで亡くなっています。煙草飲みで、いつも火をつける時はマッチで、・・・・・・・マッチを擦って、「地球の、奥の、においがするだろうって、いってたの」 と語った後、カザマに名前を訊ねるのでした。
ミツコから 「温泉卵のにおいがする」 と言われた時の、カザマの胸の内は複雑でした。言われた瞬間、顔から火が噴き出そうになり、後からジワリと額に汗が滲みます。ミツコに悪気はありませんが、何やら今の自分を責められたように感じたのは・・・・・・・
雪が3メートルも降る山奥のホテルで、毎朝、温泉卵を源泉で作り、2個づつ食べているUターンの男。広告代理店に勤めていた頃は、ディオールのオウ・ソバージュというコロンをつけていたのですが、こっちへ来てからはそれも最初の一週間だけのことでした。
「名前は・・・・・・・、ネストル・・・・・・・ネストル・ブラガード、というの。ホテル・・・・・・・あら、忘れちゃったわ。ホテル、ここは、何だったかしら?」
「ああ、そうね。みのやホテル。・・・・・・・コルドバ通りの、604にあるのよ。・・・・・・・ブエノスアイレス、アルジェンティーナ。・・・・・・・いやだわ、恥ずかしいんだけど、送金が遅れます、ごめんなさいって、・・・・・・・打って欲しいの・・・・・・・」
シャツにカフスボタンを留めてから、蝶ネクタイをつけます。ジェルで髪をオールバックにして撫でつけると、それはまるでゴキブリの背中のようでした。
集団の後ろに隠れて、サングラスをかけたミツコがいます。濃いブルーに、左肩から裾にかけて斜めにシルバーの入ったドレスで、やはりシルバーのシューズを履いています。細い首の筋や喉の窪みが影になって、細い身体がさらに痩せて見えます。
カザマはミツコの元に向かいます。踊りを促すのですが、ミツコはこうしているのが好きだと言います。ドレスや靴の音と白粉のにおい、特に樟脳のにおいが好きだと言います。話し始めると、またもやミツコは温泉卵のいいにおいがすると言い、初めてのように再びカザマに名前を訊ねるのでした。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆藤沢 周
1959年新潟県西蒲原郡内野町(現・新潟市西区)生まれ。
法政大学文学部卒業。法政大学教授。
作品 「死亡遊戯」「SATORI」「刺青」「黒曜堂」「紫の領分」「ダローガ」「焦痕」「幻夢」「キルリアン」「武曲」他多数
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