『64(ロクヨン)』(横山秀夫)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『64(ロクヨン)』(横山秀夫), 作家別(や行), 書評(ら行), 横山秀夫
『64(ロクヨン)』横山 秀夫 文芸春秋 2012年10月25日第一刷
時代は昭和から平成へと移り、すでに14年という長い年月が経過しています。たった7日間で幕を閉じた昭和64年という年に発生したD県警史上最悪の「翔子ちゃん誘拐殺人事件」は、いまだ未解決のまま、公訴時効まで余すところあと1年と少しになっています。
身代金2,000万円を奪われ、7歳の少女が無惨な死体で発見されるという忌まわしい記憶を忘れないために、事件は「ロクヨン」と呼ばれます。【事件は平成元年に非ず。必ずや犯人を昭和64年に引き戻す-】・・・D県警にとって、「ロクヨン」は誓いの符丁でした。
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この小説の中軸を成すのは、もちろん14年前に発生した凶悪な誘拐事件です。しかし、すでに半ば記憶の彼方に消えつつある、時効直前の事件が改めて解き明かされるためには、それ相応の伏線が必要です。『64(ロクヨン)』は、その伏線の物語だとも言えます。
背景にあるのは、警察内部の熾烈な権力闘争です。本庁の思惑と抵抗する県警側との対立
の中では、現場で発生する事件はもはや事件であって事件ではありません。立場こそ違えど、被害者感情よりも組織内でのわが身の有利不利が何より優先されるのです。
キャリア組は、端から現場の警察官を人間だとは思っていません。思いのまま自在にコントロールできる繰り人形程度の見立てです。この矢面に立たされるのが、県警の広報室です。〈開かれた警察〉とは名ばかりで、マスコミ対策は官僚によって徹底的に管理されます。
県警の内部では、綿々と続く刑事部と警務部の軋轢が広報室の大きな障害となっています。同じ組織でありながら、刑事部と広報室はまるで敵対する者同士のようです。刑事部と記者室、警務部長室と記者室、・・・広報室は、明けても暮れても〈板挟み〉です。
物語は、そんな広報室へ20年ぶりに出戻り異動で着任した、三上義信の視点で語られていきます。三上にとって広報室への異動は不本意なものですが、心を入れ替えて部屋の刷新に取り組もうとしています。しかし、記者室の対応や上層部の意向の狭間で、事は思うように運びません。
物語の発端となる、交通事故にしてもそうです。加害者である主婦が妊婦だという理由だけで、上からは匿名で発表せよと指示が下ります。三上に異論を挟む余地はありません。たとえ記者連中から罵声を浴びせられても、指示を覆す訳にはいかないのです。
匿名にするには理由があまりに曖昧で、警察が何かを隠しているのではないかと詰め寄る記者たちです。しかし、矢面に立つ三上もじつは匿名にする本当の理由を聞かされてはいないのです。ましてや、実名など知る由もありません。
鬼門は警務部長室でした。部長の赤間は真性のマスコミ嫌いで、記者室との関係改善を図ろうとする三上を敗北主義だと断罪します。この匿名問題に関する、警察側の頑なで一方的な態度が、後々三上をさらに苦しめることになります。
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三上は、プライベートで大きな問題を抱えています。娘のあゆみが家出して、3ヵ月が経とうとしていました。妻の美那子はあゆみからの連絡を待って、電話の前から離れようとしません。3ヵ月前、三上はそうするしかなく上司の赤間を頼ります。
赤間はその場で、県下は言うに及ばず、本庁を通じて全国に特別な手配を即座に指示します。赤間はキャリアの力を見せつけたのです。それは、服従を拒み続けてきた三上が陥落した瞬間でもありました。三上は、己の弱みを握られたのだと悟ります。
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三上が抱えた更なる問題は、警察庁長官の視察でした。それは突然決まったもので、しかも視察の目的がロクヨンだと聞かされます。予定は一週間後、遺族の雨宮芳男に了解を取付けて自宅を慰問し、ぶらさがりで記者会見をする手筈を整えろと命じられるのでした。
予期せぬことに、雨宮は三上の申し出を丁寧に断ります。わざわざ偉い人に来てもらう必要はないと言います。長官視察は大きなニュースになり、新たな情報提供を得る絶好の機会であるにもかかわらず、雨宮はそのチャンスをなぜか放棄したのでした。
雨宮の了解を取り付けて、仏壇の遺影に手を合わす長官の姿をセッティングするべし。記者室には事前に質問を用意させて、つつがなくぶらさがりの記者会見をさせるべし。ロクヨン視察は警察のパフォーマンスです。このままでは、長官視察は意味を成しません。
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ここまでは、『64(ロクヨン)』の長大な物語のほんの端緒に過ぎません。読み進むにつれて、我々は否応なく巨大な警察機構の表と裏の顔を知ることになります。策謀の裏に、また別の策謀が潜んでいます。三上と広報室が真に動き出すのは、これからです。
読みどころのひとつは、匿名問題に関する三上と記者室との激しい攻防です。匿名問題に決着がつかない限り、つまり事故を起こした主婦の実名を明かさない限り長官の記者会見をボイコットするという記者室の総意に対して、三上がいかに対処するのかという点です。三上の決意と迫力に満ちた説得は、記者室の空気を徐々に変えていきます。
そして、いよいよ三上はロクヨンの真相へと迫っていきます。なぜ雨宮は長官視察を拒んだのか、その疑問がすべての出発点でした。三上は、今こそ雨宮の声なき声を聞くときだと思います。
かつてロクヨンの初動捜査で、三上と同じ直近追尾班に配属された同期を訪ね、これも同期で今や警務部のエース・二渡の動向を怪しみ、謎の文書「幸田メモ」の所在を探ります。幸田とは、ロクヨンの半年後に辞職した幸田一樹のことでした。
事件の核心に近づくに従い、雨宮が今でも決してロクヨンを忘れていないことに三上は気付きます。そして、雨宮だけではなく、当時捜査を担当した何人もの警察官が今もってロクヨンを引き摺り、苦悩の闇で悶え足掻く姿を知ることになるのです。
そして、長官視察の前日、その事件は起こったのです。
この本を読んでみてください係数 90/100
◆横山 秀夫
1957年東京生まれ。
国際商科大学(現・東京国際大学)商学部卒業。その後、上毛新聞社に入社。
作品 「ルパンの消息」「陰の季節」「動機」「半落ち」「顔 FACE」「深追い」「第三の時効」「真相」「クライマーズ・ハイ」「影踏み」「看守眼」「震度0」他多数
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