『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』(白石一文)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2024/01/14
『この胸に突き刺さる矢を抜け』(白石一文), 作家別(さ行), 書評(か行), 白石一文
『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』 白石 一文 講談社 2009年1月26日第一刷
どちらかと言えば、読み難い。
分かっていながら、それでも気になって買ってしまう。
私にとってこの人の本はそんな本です。
小説の核心ではないのですが、途中で著者自身がふと漏らす「本音」らしきフレーズが鋭くて小気味いいのです。
そういう文章を見つけただけでも、本を買った甲斐があると言うもの。書いてある趣旨については賛否両論、好き嫌いもあるでしょうが、私は単細胞なので素直になるほどと頷き、オレにはこんなにうまく書けんわなぁと感心してしまいます。
例えば、上巻の45ページから始まる「僕の年収」という部分。
ここで白石一文は「所得格差」についての見解を述べています。
その中にボストン・レッドソックスへ移籍したときの松坂大輔の話が出てきます。
(本文より抜粋)
松坂投手の契約金は6年間で総額5,200万ドル、日本円で61億円。年俸換算で10億1,666万円になる。
一方、松坂と同じ26歳の肉体労働者の平均年収は300万円前後で、実にその差は339倍である。
これはもはや人間の天分、能力、運などの個人差や時間差を無視した理解しがたい数値で、どんな説明を受けても納得できるものではない。
たった26年生きただけで、同じ人間に339倍もの差が付いてしまうなんてまるで馬鹿みたいだ。
・・・・・・・・・・・
この作品には、松坂の話以外にも小説の本筋からは少々脱線ぎみの「寄り道」が意識的にいくつも配置されています。
中には「マスターベーション」とか「名器の家系」とか女性の読者にはちょっと読みづらそうな箇所も出てきたりします。
と思いきや、経済学者のミルトン・フリードマンのロングインタビューがそのまま書かれてあったり、プリンストン大学教授ポール・グルーグマンの著書『格差はつくられた』からの長
い引用文を読まされたりします。
一々面白いし為にもなるのですが、反面一体自分は今何を読んでいるのか訳が分からなくなってくることがあります。
これは果たして小説なのか、小説の名を借りた経済書、いや哲学なのかエッセイか。
・・・・・・・・・・・
主人公は雑誌の編集長で、話は仕事や人事、家庭と情事、抗がん治療を続けている自分自身のことなど広範囲で、それらが交錯して語られていきます。
哲学的な思索と会話、仕事上の立場を平然と利用したモデルとの関係や性描写のリアリティーが混合する、まさに白石ワールドです。
しかしながら私に限って言うと、「寄り道」の刺激が強かった分、本来の話の印象が霞んでぼやけたものになってしまいました。
願わくば今一度、「寄り道」を一切排除した、新たな『この胸に突き刺さる矢を抜け』という小説を読んでみたいと思うのですが。
失礼なことを書きましたが、この小説は第22回山本周五郎賞受賞作品です。
この本を読んでみてください係数 60/100
◆白石 一文
1958年福岡県福岡市生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。文芸春秋に入社、週刊誌記者、文芸誌編集に携わる。
父白石一郎は直木賞作家。双子の弟白石文郎も小説家。
作品 「一瞬の光」「不自由な心」「すぐそばの彼方」「僕のなかの壊れていない部分」「心に龍をちりばめて」「ほかならぬ人へ」「神秘」ほか多数
関連記事
-
-
『完璧な母親』(まさきとしか)_今どうしても読んで欲しい作家NO.1
『完璧な母親』まさき としか 幻冬舎文庫 2019年3月30日10刷 「八日目の蝉
-
-
『虚談』(京極夏彦)_この現実はすべて虚構だ/書評という名の読書感想文
『虚談』京極 夏彦 角川文庫 2021年10月25日初版 *表紙の画をよく見てくださ
-
-
『空中ブランコ』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文
『空中ブランコ』奥田 英朗 文芸春秋 2004年4月25日第一刷 『最悪』『邪魔』とクライム・ノ
-
-
『貴婦人Aの蘇生』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
『貴婦人Aの蘇生』小川 洋子 朝日文庫 2005年12月30日第一刷 北極グマの剥製に顔をつっこん
-
-
『硝子の葦』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
『硝子の葦』桜木 紫乃 新潮文庫 2014年6月1日発行 今私にとって一番読みたい作家さんです。
-
-
『綺譚集』(津原泰水)_読むと、嫌でも忘れられなくなります。
『綺譚集』津原 泰水 創元推理文庫 2019年12月13日 4版 散策の途上で出合
-
-
『砂上』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
『砂上』桜木 紫乃 角川文庫 2020年7月25日初版 「あなた、なぜ小説を書くん
-
-
『飼う人』(柳美里)_書評という名の読書感想文
『飼う人』柳 美里 文春文庫 2021年1月10日第1刷 結婚十年にして子どもがで
-
-
『ふたりぐらし』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文
『ふたりぐらし』桜木 紫乃 新潮文庫 2021年3月1日発行 元映写技師の夫・信好
-
-
『暗いところで待ち合わせ』(乙一)_書評という名の読書感想文
『暗いところで待ち合わせ』 乙一 幻冬舎文庫 2002年4月25日初版 視力をなくし、独り静か