『業苦 忌まわ昔 (弐)』(岩井志麻子)_書評という名の読書感想文

『業苦 忌まわ昔 (弐)』岩井 志麻子 角川ホラー文庫 2020年6月25日初版

志を立て腹に宿った釈迦如来。親子の情が通じない無情なあの世。色男を焦がれ死させた冷酷な美女。妻に追い立てられて老いた姨母を山に捨てた夫 - 。これは昔か現代か。それは夢か現か幻か。過去を語ることで浮き上がる、忘れていた忌まわしい今・・・・・・・。「今昔物語集」 の著名な説話をもとに、鋭敏な感性と観察眼で現代に起こった凄惨な事件を解釈した、比類なき怪異譚。人間の本質を巧みにあぶりだす人気シリーズ第2弾! (角川ホラー文庫)

池の尾の禅珍内供の鼻の語 (巻第二十八第二十話)
京都の池尾に、禅珍という鼻が五、六寸もある僧が住んでいた。鼻は赤紫でつぶ立ち膨れ上がっていて、しかも痒くなる。鼻は茹でて油抜きをすると、普通の人のもののようになるが、二、三日すると元に戻ってしまう。食事も、ある法師に鼻を持ち上げてもらい食べる始末。あるとき、別の童がその役を代わったが粗相をして禅珍は怒る。「もし高貴なお方の鼻を持ち上げる最中だったらどうするつもりだ! 」

- という話を、著者流に現代版にすると、「娘が語るパパの話」 に変わります。

パパは、ある日いきなり変なスイッチが入ったのではなく、何の前触れもなく急に壊れたのでもなくて、徐々に、ゆっくり、次第に、しかし確実に変わっていったのでした。

パパはけっこう自慢の、とまではいかなくても、そんな恥ずかしい人でも困ったおじさんでもありませんでした。娘が中学に入るまでは、間違いなくちゃんとしたパパで旦那さんで会社員で、職場でも家でも近所周りでも、真面目で優しくてきちんとした人として見られていました。

都内の有名私大を出て、実家がある隣県の町では知られた会社に勤め、ママにいわせると出世は遅めだっていうけど、ちゃんと役職にも就いていました。

ところが、あるときから、朝起きたらパパがまだ寝ていたり、学校から帰ってきたらリビングでぼーっとテレビを眺めていたりするようになりました。「なんで、パパがいるの」 と訊くと、ママは 「まぁ、いろいろあるのよ」 「パパはちょっと体調を崩して、会社にしばらくの間お休みをもらったの」 と言いました。

陰気なお地蔵さんみたいな顔と質感のパパがリビングにどーんといると、家全体の空気が重く澱んだようになりました。そして、それはやがてパパだけのことではなくて、我が家そのものが徐々に、ゆっくり、次第に、しかし確実におかしくなっていったのでした。

パパはいつの間にか、ママに一言の相談もなく会社を辞めていました。パパには、暴力を振うとか暴れるとか、お酒を飲んでおかしくなるとか、そういう派手な困りごとはありません。ひたすら暗く、家にも自分の殻にも閉じこもっていたのでした。

パパは更なる変化を遂げます。あるとき、「右手が腫れあがって、大きくなっている。いつもむずがゆくて、腫れぼったい。何か無数の虫が、皮膚の下に湧いているような気もする」 そんな気持ち悪いことを言い出したのでした。

「重くて右手が持ちあがらなくて、寝返りを打つのも困る。この右手がある限り、外出なんか絶対できない」 パパは自分の右手のこととなると、よく喋ります。「ほら。こんなに赤紫色になって、ミカンの皮みたいにでこぼこ、ぶつぶつしている。なんだか蠢くものが透けてるだろ」 などと言います。

私やママから見ると、パパの右手は別に何の異変もありません。腫れてもいないし、虫なんか湧いているわけがないし、変色もしていません。でこぼこやつぶつぶもありません。

しかし私とママは、パパの言うことを真っ向から否定することができません。はっきり言って、パパが怖かったからです。絶対におかしなことを言っているパパは、もはやパパにしか見えない世界に入り込んでいたのですから。(続く)

この本を読んでみてください係数 85/100

◆岩井 志麻子
1964年岡山県和気郡和気町生まれ。
岡山県立和気閑谷高等学校商業科卒業。

作品 「ぼっけえ、きょうてい」「チャイ・コイ」「夜啼きの森」「岡山女」「自由戀愛」「現代百物語」シリーズ 他多数

関連記事

『少女奇譚/あたしたちは無敵』(朝倉かすみ)_朝倉かすみが描く少女の “リアル”

『少女奇譚/あたしたちは無敵』朝倉 かすみ 角川文庫 2019年10月25日初版

記事を読む

『楽園の真下』(荻原浩)_書評という名の読書感想文

『楽園の真下』荻原 浩 文春文庫 2022年4月10日第1刷 「日本でいちばん天国

記事を読む

『罪の轍』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『罪の轍』奥田 英朗 新潮社 2019年8月20日発行 奥田英朗の新刊 『罪の轍』

記事を読む

『恋に焦がれて吉田の上京』(朝倉かすみ)_書評という名の読書感想文

『恋に焦がれて吉田の上京』朝倉 かすみ 新潮文庫 2015年10月1日発行 札幌に住む吉田苑美

記事を読む

『火口のふたり』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『火口のふたり』白石 一文 河出文庫 2015年6月20日初版 『火口のふたり』

記事を読む

『きみは誤解している』(佐藤正午)_書評という名の読書感想文

『きみは誤解している』佐藤 正午 小学館文庫 2012年3月11日初版 出会いと別れ、切ない人生に

記事を読む

『潤一』(井上荒野)_書評という名の読書感想文 

『潤一』井上 荒野 新潮文庫 2019年6月10日3刷 「好きだよ」 と、潤一は囁い

記事を読む

『首の鎖』(宮西真冬)_書評という名の読書感想文

『首の鎖』宮西 真冬 講談社文庫 2021年6月15日第1刷 さよなら、家族

記事を読む

『犯罪調書』(井上ひさし)_書評という名の読書感想文

『犯罪調書』井上 ひさし 中公文庫 2020年9月25日初版 白い下半身を剥き出し

記事を読む

『Mの女』(浦賀和宏)_書評という名の読書感想文

『Mの女』浦賀 和宏 幻冬舎文庫 2017年10月10日初版 ミステリ作家の冴子は、友人・亜美から

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

『百年と一日』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『百年と一日』柴崎 友香 ちくま文庫 2024年3月10日 第1刷発

『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第

『羊は安らかに草を食み』(宇佐美まこと)_書評という名の読書感想文

『羊は安らかに草を食み』宇佐美 まこと 祥伝社文庫 2024年3月2

『逆転美人』(藤崎翔)_書評という名の読書感想文

『逆転美人』藤崎 翔 双葉文庫 2024年2月13日第15刷 発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑