『百年泥』(石井遊佳)_書評という名の読書感想文

『百年泥』石井 遊佳 新潮文庫 2020年8月1日発行

百年泥(新潮文庫)

豪雨が続いて百年に一度の洪水がもたらしたものは、圧倒的な “泥” だった。南インド、チェンナイで若いIT技術者達に日本語を教える 「私」 は、川の向こうの会社を目指し、見物人をかきわけ、橋を渡り始める。百年の泥はありとあらゆるものを呑み込んでいた。ウイスキーボトル、人魚のミイラ、大阪万博記念コイン、そして哀しみさえも・・・・・・・。新潮新人賞、芥川賞の二冠に輝いた話題沸騰の問題作。(新潮文庫)

解説の末木文美士先生は著者の恩師で、彼女が東京大学インド哲学仏教学研究室にいた頃の中国仏教専門の教授であるらしい。

物物しくもあり、何だか近寄り難く感じるのは私だけでしょうか。心して読み出すと、これが意外と “普通” で、ちょっと安心します。(小説のことではありません。解説の話)

読んでみると、これはすごいインパクトがある。さっそく彼女に返事した。これは芥川賞とれるよ、ただし、選考委員がこういうスケールの大きいホラ話が分かるだけの力があればの話だけど、と。さいわい心配するまでもなく、すんなり芥川賞を受賞して、彼女は僕の手の届かないところの人になってしまった。

そこで 『百年泥』 だが、今さらあらすじを書く必要もあるまい。確かに過去と現在、インドと日本が入り組んで一見ややこしそうだが、素直に読んでいけば、それほど分かりにくいことはない。2015年に作者が渡印してすぐに、チェンナイに百年に一度の大洪水があって、市内が水浸しになったのは、本当のことだ。それに作者がIT会社で日本語を教えていたのも事実だし (読者がそれを知らなくても何となく分かる)、設定にフィクションはあっても、ベースは事実に基づいているらしいと、安心する。

ところが、そうは問屋が卸さない。は大洪水の後のアダイヤール川の泥まみれの橋を渡って会社に行こうとする。ところが、途中で 何か変だなと感じたところから、百年泥の奇妙な世界に入っていく。このあたりは巧妙で、インドならばそんなことがあってもおかしくないと、何となくすんなりと納得して、あまり抵抗なくとんでもない世界に入り込んでしまう。

会社に行くには、アダイヤール川に架かるその橋を、どうしても渡らなければなりません。会社は、橋を渡った左手にあります。

泥の多さ、臭さは仕方ありません。何せ、百年に一度の大洪水だったのですから。橋の中央には広い車道が走り、その車道の左右を通る歩道にそって幅一メートル、高さ五十センチほどに盛り上げられた泥の山が、長さ五百メートル以上あるコンクリート橋の端から端まで延々と続いています。

問題は、最初泥よりむしろ橋に集まる群衆でした。アダイヤール川に近づくにつれ、「たちまち視界は子供の手をひく巨大なサリーのお尻、杖をつく老人、肩を組んだ若い男の三人づれなどでうめつくされ」、歩くのも困難になります。

なかなかに前へ進めない中、次に 「私」 が考えたのは、「百年ぶりの洪水ということは、それは一世紀にわたって川に抱きしめられたガラクタやら何やら、あらゆる有象無象がいま陽の目を見たということ」。泥は、「都会のドブ川の、とほうもない底の底まで撹拌され押しあいへしあい地上に捧げられた百年泥」 なんだと。

さて、奇妙な話になるのは、ここからです。

私の真ん前を歩いていた黄色いサリー姿の四十年配の女性が、いきなり泥の山の中へ勢いよく右手をつっ込むなり、
ああまったく、こんなところに!
大声で叫びながらつかみだすと同時にもう一方の手で水たまりの水を乱暴にあびせかけ、首のスカーフでぬぐったのを見ると五歳ぐらいの男の子でした。

七年間もどこほっつき歩いてたんだよ、ええ? ディナカラン! 親に心配させて!
いまいましげに舌打ちしながら、女性は男の子に向かってそう言ったのでした。

夢か現か、幻か?  七年の時を経て、男の子は百年泥の中から現れたのでした。「私」 は確かにそれを見ています。橋は相変わらずの混雑で、これとよく似たことが次々と起こります。(注意してください。他にも 「嘘つけ!! 」 と思うことがしれっと書いてあります)

この本を読んでみてください係数 85/100

百年泥(新潮文庫)

◆石井 遊佳
1963年大阪府枚方市生まれ。
東京大学大学院博士後期課程 (インド哲学仏教学) 満期退学。

作品 2017年、「百年泥」 で新潮新人賞、翌18年、同作で芥川賞受賞。

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