『海』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/07 『海』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(あ行)

『海』小川 洋子 新潮文庫 2018年7月20日7刷

恋人の家を訪ねた青年が、海からの風が吹いて初めて鳴る 〈鳴鱗琴〉 について、一晩彼女の弟と語り合う表題作、言葉を失った少女と孤独なドアマンの交流を綴る 「ひよこトラック」、思い出に題名をつけるという老人と観光ガイドの少年の話 「ガイド」 など、静謐で妖しくちょっと奇妙な七編を収録した短編集。「今は失われてしまった何かをずっと見続ける小川洋子の真髄。著者インタビューを併録。(新潮文庫)

第一話 
恋人の泉さんの実家に初めて泊まり掛けで行ったときの話。

泉さんの家族については、あまり詳しく知らなかった。おじいさんの代までは葡萄農家だったが、株で失敗して土地を失い、仕方なくお父さんはお役人となり、二十一歳の弟は音楽をやっている。以上で大体全部だった。

小さな弟 - 十歳下の弟を泉さんはいつもそう呼んでいた。
弟は小さくなどなかった。僕よりも頭一つ背が高く、体重は一・五倍くらいありそうだった。

夜、泉さんは高校時代まで使っていた自分の部屋で、僕は小さな弟と一緒に彼の部屋で休むことになった。

「君は、何の楽器の演奏者なんだい? 」
布団に入り、電灯を消してから僕は尋ねた。
「メイリンキンです」
小さな弟は答えた。

「珍しい楽器なんだね」
「はい、たぶん」
「ラグビーのボールよりももう少し膨らんでいて、両手で抱えるのにちょうどいいくらいの大きさです。ザトウクジラの浮袋でできているんです」

「浮袋の表面には魚の鱗がびっしり張りつけてあって、中には飛び魚の胸びれで作った弦が仕掛けてあります。それが振動源となって、空気の震えを鱗に伝えるのです」

メイリンキンとは、鳴鱗琴と書くのだと、僕は分かった。
「そんな珍しい楽器を演奏できる人に出会ったのは、君が初めてだ」
「そうだと思います。だって、鳴鱗琴を演奏するのは、この世の中で僕一人だから」
小さな弟は言った。「僕が発明した楽器なんです。僕が発明者で、唯一の演奏者」

「是非、君の演奏が聞きたいよ」
すみません。今は無理なんです。海からの風が届かないと、鳴鱗琴は鳴りません

「浮袋の脇に細長い隙間があって、そこを風が通り抜ける時、飛び魚の弦を揺らします。風の強弱によって弦の震え方も違ってきます。演奏者は、つまり僕は浮袋の口から息を吹き込み、風の邪魔をしないようにその振動を浮袋全体に共鳴させ、鱗に伝えるわけなんです。だから演奏者と言っても、自分がメロディーを奏でるのではなく、主役はあくまでも風なんです。しかも海からの」

小さな弟は胸の前に両腕を持ち上げ、頬を膨らませ、唇をすぼめた。そうしてから腕の中の暗闇に、そっと息を吹き込んだ。

口笛とも違う、歌声とも違う、微かだけれど揺るぎない響きが聞こえてきた。それは海の底から長い時間を経て、ようやくたどり着いたという安堵と、更に遠くへ旅立ってゆこうとする果てのなさの、両方を合わせ持っていた。
僕は小さな弟が海辺に立っている姿を思い浮かべてみた。両足はたくましく砂を踏みしめ、掌は優しく浮袋を包んでいる。まるで風は目印を見つけたかのように、彼に吸い寄せられる。海を渡るすべての風が、小さな弟の掌の温もりを求めている。
彼の唇は本当に今そこに鳴鱗琴があるのと変わりなく、暗闇を揺らし続けた。それは僕の愛する泉さんの唇と、そっくり同じ形をしていた。

たった20ページ余の作品。僕と泉さんは教師をしています。今回の遠出の目的は、二人の結婚について承諾を得るためでした。僕はその夜、まさか小さな弟の部屋で彼と一緒に眠るとは思いもしませんでした。

第二話 風薫るウィーンの旅六日間
第三話 バタフライ和文タイプ事務所
第四話 銀色のかぎ針
第五話 缶入りドロップ
第六話 ひよこトラック
第七話 ガイド

この本を読んでみてください係数 85/100

◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ミーナの行進」「ブラフマンの埋葬」他多数

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