『密やかな結晶 新装版』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
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『密やかな結晶 新装版』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(は行)
『密やかな結晶 新装版』小川 洋子 講談社文庫 2020年12月15日第1刷
記憶狩りによって消滅が進む島。人々は大切な物を、そして自分自身を、失っていった。
その島では、記憶が少しずつ消滅していく。鳥、フェリー、香水、そして左足。何が消滅しても、島の人々は適応し、淡々と事実を受け入れていく。小説を書くことを生業とするわたしも、例外ではなかった。ある日、島から小説が消えるまでは・・・・・・・。刊行から25年以上経った今もなお世界で評価され続ける、不朽の名作。(講談社文庫)
2019年 「全米図書賞」 翻訳部門最終候補作
2020年 「ブッカー国際賞」 最終候補作
小川洋子の小説にはよくあることですが、それがどこの国の、どんな島のことかはわかりません。行われる 「消滅」 は、明らかに 「はく奪」 を意味します。あらゆるものが消滅し、それが現にあったという記憶までもが消滅します。
『密やかな結晶』 は架空の島が舞台となっている。この島の人々は島にいる限り、心の中のものを順番に、一つずつ失くしていかなくてはならない。消滅が静かに進んでいく島の物語はまったくの虚構でありながら、どこか懐かしく、いつか見た風景に似ている。遠い過去の、ほの明るい記憶に似ている。たとえば、秘密警察への協力を拒み、隠れ家に逃れようとする乾家族との別れ、主人公の 「わたし」 が乾家の八歳の男の子の爪を切る場面。
永遠の別れになる予感を孕みながら、ひととき、彼らはささやかな時間を共有する。夜の静寂の中でパチパチと響く爪切りの音が、僕の耳底に聞こえてくる。そして、僕は僕の過去の記憶を呼び覚ます。子どものころ、父が僕の爪を切ってくれたことを思い出す。廃品回収業を営んで、日々の暮らしに追われていた父がその時、なんで僕の爪を切ってくれたのか記憶が定かではない。けれど、父が僕の指を傷つけないよう注意深く、爪を切る横顔を鮮明に記憶している。爪切りのパチパチ響く音を覚えている。あれもたしか静かな夜だった・・・・・・・。
『密やかな結晶』 は消滅の物語であるけれど、同時に消滅できない者の物語でもある。「わたし」 が思いを寄せる編集者の 「R氏」 は、「わたし」 の母と同じく消滅したものを記憶する者、忘れることのできない者である。彼らは記憶しているがゆえに、迫害され、粛清される。
そこにユダヤ人差別やホロコーストの影を、「在日」 韓国人である僕はどうしても色濃く見てしまう。小川洋子さん自身も 『アンネの日記』 を愛読していたことが、『密やかな結晶』 を書くきっかけであったと明言している。(鄭義信/解説より抜粋)
ある日、身近にあった物々が忽然と消えてなくなる。それと同時に人の記憶からも消えてしまう。つまりは、(そんなものは) 端からなかったことになります。
時の為政者にとって不都合な人間は容赦なく排除され、やがて消滅は、一律に、人体に及ぶことになります。足が消え、声が出なくなります。
あなたにとって、消滅しても、消滅しても、なお消滅しない、心の中にある、何より大事なものは何ですか。モノですか、人ですか。何かの記憶ですか?
声ですか? ことば、ですか?
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◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」他多数
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