『草にすわる』(白石一文)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/07
『草にすわる』(白石一文), 作家別(さ行), 書評(か行), 白石一文
『草にすわる』白石 一文 文春文庫 2021年1月10日第1刷
一度倒れた人間が、新しい一歩を踏み出す このどうしようもない世の中で
時に身勝手で、醜い部分も持ち合わせ、時に深く絶望している人間たちが、ふと自分をみつめ直し、人生に面白さを見出していく。かといって 「世の中は生きるに値する良いものだ」 と全肯定させたりはしない。 解説・瀧井朝世
「最低5年間は何もすまい」 会社を辞めた洪治はそう心に誓った。無為な日々の中で付き合ってきた曜子があの事件の絶望を語った時、二人の間には睡眠薬の山があった (表題作)。なぜ人間は生まれ、どこに行くのか。一度倒れた人間が一歩を踏みだす瞬間に触れる美しい5編 (文春文庫化に際し単行本未収録2編追加)。(文春文庫)
昼間出たときよりも外気はさらに冷えきっていた。
曜子さんの住むマンションは、家の前の坂を上って下り、もう一つ大きな坂を越えた先、東北自動車道の高架の向こう側にあった。歩くと二十分くらいの距離だ。
母には、毎週水曜日は稔の店の手伝いに行くと言ってある。稔の経営する小さな居酒屋は武蔵浦和駅の近くにあって朝の五時までやっているから、外泊になっても怪しまれない。
何もこの歳になって親に遠慮する必要もないのだが、曜子さんと知り合うきっかけを作ったのが当の母であり、いまも母はハロディ・イイヅカでパート勤めしているのだから、特に曜子さんは二人の関係を勘づかれたくないふうだった。
去年の暮れに曜子さんの部屋で見つけた詩集の中の一節を洪治は思い浮かべた。
悲しく投げやりな気持ちでいると
ものに驚かない
冬をうつくしいとだけおもっている
八木重吉という人の詩だった。
この人は学生の頃から結核で苦しみ、三十歳の若さで妻と二人の子供を残して死んだのだと曜子さんが言っていた。
曜子さんは自分の境遇とも重ねあわせて、この詩人の詩が好きなのだろうと洪治は思った。
病気すると
ほんに何も欲しくない
妻や桃子たちもいとしくてならぬ
よその人も
のこらず幸であって下さいと心からねがわれる
細い筆文字でこれもなんとも優しげだった。
詩集を借りはしなかったが、家に帰ってから、あとひとつだけ強く印象に残った詩をノートに書き留めておいた。「草に すわる」 という詩だった。
わたしのまちがいだった
わたしの まちがいだった
こうして 草にすわれば それがわかる
洪治はこの短いフレイズに妙に惹きつけられた。どうしてだか自分でも分からないが、何かほんとうに切羽詰まったなら、よし、俺も草にすわってみようと思った。ロードワークの楽しみを取り戻した時期だったから、正反対の発想に不意をつかれただけかもしれないが、肝心なときに草にすわれば、それだけで自分の間違いがきっと分かるような、そんな確信めいた感触を洪治は持ったのだ。(本文より/部分的に割愛しています)
洪治は一昨年の暮れに急性胆嚢炎を患って、胆嚢の摘出手術を受けました。手術は軽度で、入院も十日ばかりで済んだのですが、以来、丸一年を越えても体調が元には戻りません。相変わらず腹具合が悪く、退社後二年半にわたった独り暮らしに見切りをつけ、昨年二月に実家に舞い戻っています。
二人が出会ったのは、母が仕事帰りに曜子さんを実家に連れてきたからでした。十二年ぶりのことでした。
曜子さんは地元のスーパー、ハロディ・イイヅカで働いています。店では店長代わりの販売課長をしています。洪治と同じ高校の二年先輩で、一橋大学に合格し、卒業後は大手の監査法人に就職したはずでした。そんな彼女が今、小さなスーパーで働いています。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆白石 一文
1958年福岡県福岡市生まれ。
早稲田大学政治経済学部卒業。
作品 「一瞬の光」「すぐそばの彼方」「僕のなかの壊れていない部分」「心に龍をちりばめて」「ほかならぬ人へ」「翼」「火口のふたり」「一億円のさようなら」他多数
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