『某』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『某』川上 弘美 幻冬舎文庫 2021年8月5日初版

某 (幻冬舎文庫)

「あたしは、突然この世にあらわれた。そこは病院だった」。限りなく人間に近いが、性的に未分化で染色体が不安定な某。名前も記憶もお金もないため、医師の協力のもと、絵に親しむ女子高生、性欲旺盛な男子高校生、生真面目な教職員と変化し、演じ分けていく。自信を得た某は病院を脱走、そして仲間に出会う - 。愛と未来をめぐる破格の長編小説。(幻冬舎文庫)

帯に、
「幻冬舎文庫 心を運ぶ名作100。」
「死ぬことは、今も怖い。恋してからは、ますます怖くなっている。」 - とあります。

芥川賞受賞作 『蛇を踏む』 からしてそうだったのですが、この人が書く小説は、中に人知を超えて奇想天外なものがあり、一筋縄ではいきません。危ぶみつつ読み始めてはみたのですが、案の定、おおよそ思った通りの代物でした。

人間のようで人間ではない。人間に擬態する生命体が人間に混じってこの世界に生きている。その謎の生命体が主人公である。
というとSFめいているし、実際、川上弘美はSF由来の作家なのだけれども、むしろノンジャンルというべき今までみたこともないような小説で、ぐいぐいと引き込まれていったいどこへ連れていかれるのやらわからないところにこの小説の醍醐味がある。
(解説より)

ほんの “さわり” を紹介しましょう。

小説の冒頭、病院の受付で呆然と立ち尽くしている人物は、自分の名前はもとより、年齢、来歴を知らないどころか、性別すらも把握できていない。ほとんど記憶喪失者のようである。人が生まれるときと同じで意思によって出現したわけではないから当人も面食らっている様子。

そこで医師は治療という名目で 「アイデンティティーを確立しようではありませんか」 と誘導する。まずは名前を丹羽ハルカとする。そして属性は、十六歳、女性、高校二年生。まるで小説家が人物設定をするかのようにして、ようやく主人公が動き出す。転校生として高校に入り込み、クラスメートたちとの交友関係を通じて、次第に丹羽ハルカの個性が積み上がっていく。(解説の続き)

※(百歩譲って) まあ、ここまでは良しとしましょう。問題かつ重要なのはここから先で、事は一度だけでは終わりません。基本、男女の別や年齢や条件の有無等に関らず、某がする擬態はその後何度も、繰り返し変化します。(そこに何か決まったルールがあるとは思えません)

読者のあたまのなかにも丹羽ハルカがくっきりとした輪郭を結びはじめると、作中の医師が丹羽ハルカの日記は 「停滞」 していると言い出し、主人公は野田春眠という男子高校生へと変化する。野田春眠になったとたんに主人公は性欲に突き動かされた猛々しい個性を発揮しだし、丹羽ハルカの無機質で静かな日常とは異なって物語世界は俄然、活気を帯びるのである。(解説の続き/以下略)

このあと、「なるほど、アイデンティティーというのは年齢や性別などの単なる属性ではないのだ」 「人間らしさを加えるには情動を揺らす必要があるらしい」 と続きます。

野田春眠の世界が精彩を欠くようになると、今度は山中文夫という二十一歳の青年に変化します。山中の次が二十三歳の女性のマリ。マりは自由を求め、それまでいた病院から脱獄するかのように逃げ出し、姿を消します。

その後のマリは、ナオという男性と約十六年ほどを一緒に過ごし、ナオの死後、その喪失に耐え兼ねて、ラモーナとなってカナダに渡ります。ナオは初めてマリが 「誰でもない者」 だと見抜いた人物でした。マリと自分がよく似ていると感じ、同居を承知したのでした。

人間のようで人間ではない、某としか呼びようのない謎の生命体はハルカを皮切りに、その後、春眠、文夫、マリ、ラモーナと変化し、その後も 「片山冬樹」 「ひかり」 と変化し続けます。

某がひかりとして生きはじめて十年ほどが経った頃でした。
それは、以前、死ぬことが怖くなった時の感じとよく似た感覚で、一緒に暮らすみのりを前に、ひかりは 「死ぬことは、今も怖い。みのりに恋してからは、ますます怖くなっている」 と、それまでの某にはあるまじきことを思うのでした。

この本を読んでみてください係数 85/100

某 (幻冬舎文庫)

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。
お茶の水女子大学理学部卒業。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「水声」「どこから行っても遠い町」「大きな鳥にさらわれないよう」他多数

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