『某』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/07 『某』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(は行)

『某』川上 弘美 幻冬舎文庫 2021年8月5日初版

「あたしは、突然この世にあらわれた。そこは病院だった」。限りなく人間に近いが、性的に未分化で染色体が不安定な某。名前も記憶もお金もないため、医師の協力のもと、絵に親しむ女子高生、性欲旺盛な男子高校生、生真面目な教職員と変化し、演じ分けていく。自信を得た某は病院を脱走、そして仲間に出会う - 。愛と未来をめぐる破格の長編小説。(幻冬舎文庫)

帯に、
「幻冬舎文庫 心を運ぶ名作100。」
「死ぬことは、今も怖い。恋してからは、ますます怖くなっている。」 - とあります。

芥川賞受賞作 『蛇を踏む』 からしてそうだったのですが、この人が書く小説は、中に人知を超えて奇想天外なものがあり、一筋縄ではいきません。危ぶみつつ読み始めてはみたのですが、案の定、おおよそ思った通りの代物でした。

人間のようで人間ではない。人間に擬態する生命体が人間に混じってこの世界に生きている。その謎の生命体が主人公である。
というとSFめいているし、実際、川上弘美はSF由来の作家なのだけれども、むしろノンジャンルというべき今までみたこともないような小説で、ぐいぐいと引き込まれていったいどこへ連れていかれるのやらわからないところにこの小説の醍醐味がある。
(解説より)

ほんの “さわり” を紹介しましょう。

小説の冒頭、病院の受付で呆然と立ち尽くしている人物は、自分の名前はもとより、年齢、来歴を知らないどころか、性別すらも把握できていない。ほとんど記憶喪失者のようである。人が生まれるときと同じで意思によって出現したわけではないから当人も面食らっている様子。

そこで医師は治療という名目で 「アイデンティティーを確立しようではありませんか」 と誘導する。まずは名前を丹羽ハルカとする。そして属性は、十六歳、女性、高校二年生。まるで小説家が人物設定をするかのようにして、ようやく主人公が動き出す。転校生として高校に入り込み、クラスメートたちとの交友関係を通じて、次第に丹羽ハルカの個性が積み上がっていく。(解説の続き)

※(百歩譲って) まあ、ここまでは良しとしましょう。問題かつ重要なのはここから先で、事は一度だけでは終わりません。基本、男女の別や年齢や条件の有無等に関らず、某がする擬態はその後何度も、繰り返し変化します。(そこに何か決まったルールがあるとは思えません)

読者のあたまのなかにも丹羽ハルカがくっきりとした輪郭を結びはじめると、作中の医師が丹羽ハルカの日記は 「停滞」 していると言い出し、主人公は野田春眠という男子高校生へと変化する。野田春眠になったとたんに主人公は性欲に突き動かされた猛々しい個性を発揮しだし、丹羽ハルカの無機質で静かな日常とは異なって物語世界は俄然、活気を帯びるのである。(解説の続き/以下略)

このあと、「なるほど、アイデンティティーというのは年齢や性別などの単なる属性ではないのだ」 「人間らしさを加えるには情動を揺らす必要があるらしい」 と続きます。

野田春眠の世界が精彩を欠くようになると、今度は山中文夫という二十一歳の青年に変化します。山中の次が二十三歳の女性のマリ。マりは自由を求め、それまでいた病院から脱獄するかのように逃げ出し、姿を消します。

その後のマリは、ナオという男性と約十六年ほどを一緒に過ごし、ナオの死後、その喪失に耐え兼ねて、ラモーナとなってカナダに渡ります。ナオは初めてマリが 「誰でもない者」 だと見抜いた人物でした。マリと自分がよく似ていると感じ、同居を承知したのでした。

人間のようで人間ではない、某としか呼びようのない謎の生命体はハルカを皮切りに、その後、春眠、文夫、マリ、ラモーナと変化し、その後も 「片山冬樹」 「ひかり」 と変化し続けます。

某がひかりとして生きはじめて十年ほどが経った頃でした。
それは、以前、死ぬことが怖くなった時の感じとよく似た感覚で、一緒に暮らすみのりを前に、ひかりは 「死ぬことは、今も怖い。みのりに恋してからは、ますます怖くなっている」 と、それまでの某にはあるまじきことを思うのでした。

この本を読んでみてください係数 85/100

◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。
お茶の水女子大学理学部卒業。

作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「センセイの鞄」「天頂より少し下って」「水声」「どこから行っても遠い町」「大きな鳥にさらわれないよう」他多数

関連記事

『ひゃくはち』(早見和真)_書評という名の読書感想文

『ひゃくはち』早見 和真 集英社文庫 2011年6月30日第一刷 地方への転勤辞令が出た青野雅人は

記事を読む

『女たちの避難所』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『女たちの避難所』垣谷 美雨 新潮文庫 2017年7月1日発行 九死に一生を得た福

記事を読む

『八日目の蝉』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『八日目の蝉』角田 光代 中央公論新社 2007年3月25日初版 この小説は、不倫相手の夫婦

記事を読む

『バック・ステージ』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『バック・ステージ』芦沢 央 角川文庫 2019年9月25日初版 「まさか、こうき

記事を読む

『海よりもまだ深く』(是枝裕和/佐野晶)_書評という名の読書感想文

『海よりもまだ深く』是枝裕和/佐野晶 幻冬舎文庫 2016年4月30日初版 15年前に文学賞を

記事を読む

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(ブレイディみかこ)_書評という名の読書感想文

『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディみかこ 新潮文庫 2021年7月1日発行

記事を読む

『緋色の稜線』(あさのあつこ)_書評という名の読書感想文

『緋色の稜線』あさの あつこ 角川文庫 2020年11月25日初版 ※本書は、201

記事を読む

『桃源』(黒川博行)_「な、勤ちゃん、刑事稼業は上司より相棒や」

『桃源』黒川 博行 集英社 2019年11月30日第1刷 沖縄の互助組織、模合 (

記事を読む

『希望病棟』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『希望病棟』垣谷 美雨 小学館文庫 2020年11月11日初版 神田川病院に赴任し

記事を読む

『羊と鋼の森』(宮下奈都)_書評という名の読書感想文

『羊と鋼の森』宮下 奈都 文春文庫 2018年2月10日第一刷 高校生の時、偶然ピアノ調律師の板鳥

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『マッチング』(内田英治)_書評という名の読書感想文

『マッチング』内田 英治 角川ホラー文庫 2024年2月20日 3版

『僕の神様』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『僕の神様』芦沢 央 角川文庫 2024年2月25日 初版発行

『存在のすべてを』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『存在のすべてを』塩田 武士 朝日新聞出版 2024年2月15日第5

『我が産声を聞きに』(白石一文)_書評という名の読書感想文

『我が産声を聞きに』白石 一文 講談社文庫 2024年2月15日 第

『朱色の化身』(塩田武士)_書評という名の読書感想文

『朱色の化身』塩田 武士 講談社文庫 2024年2月15日第1刷発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑