『王国』(中村文則)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『王国』(中村文則), 中村文則, 作家別(な行), 書評(あ行)
『王国』中村 文則 河出文庫 2015年4月20日初版
児童養護施設育ちのユリカ。フルネームは、鹿島ユリカ。彼女は、ハニートラップを仕掛けて人の弱みを人工的に作ることを生業にしています。ターゲットは社会的な要人で、依頼はすべて矢田という正体不明の男から入ります。
一緒にホテルに入る写真や映像。娼婦とベッドでたわむれている証拠。性の恥を覚えるような証拠。誰にも知られたくない出来事の証拠 - 性欲という弱さにつけ入り、美によって判断を鈍らせ、目的を遂げる。それがユリカの仕事です。
ユリカは、「娼婦」ではありません。まさに身体を許そうかという寸前まで男を誘い込み、間際で前後不覚の状態に貶めて目的を成す。その仕業は常に危険と隣り合わせで、最悪の場合は死をも覚悟せねばなりません。
しかし、彼女は「その瞬間」こそを望んでいます。その〈渦のような場所〉に居続けることが、望む生き様です。誰からも羨望されない、自分だけの暗い高み。その瞬間こそ、最も自分らしくなることができ、あらゆるものから自由になれる。そんな感覚になるのです。
社会的地位もそれまでの人生も関係なく内面の欲望の本性をむき出しにして、全身で自分を求めてくる男たち。それをかわし、裏切り、すり抜ける。欲望を曝け出して見せた上に、それを成就することもできずに屈服する男たち。その全てを嘲るのです。
人が何を求め、人生が何を要求しようとも、すり抜け、嘲っていく。目の前に現れるものを強く裏切る時、自分の中に生まれる熱を確かに感じるユリカです。彼女には、守るべきものや失くしたくないと思うものが何一つありません。
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ある日彼女は見知らぬ男と出会い、こんな忠告を受けます。「あの男に関わらない方がいい・・・何というか、化物なんだ」男はそう言って、人ごみの中に消えます。
ユリカには意味が分かりません。〈あの男〉とは、施設仲間だった長谷川から紹介された新しい施設長の近藤のことで、見知らぬ男はその近藤を〈木崎〉だと言い、「なぜ木崎と会った」と問い詰めたのです。誰かと勘違いされているとしか思えないユリカです。
矢田から1枚の写真を見せられます。サングラスをし、笑みを浮かべながら歩いている背の高い男。矢田曰く「裏にいる男」で、この男の手でもう何人もの人間が死んでいる。あらゆる裏に存在する特殊な人間で、八神、吉原、木崎、色々な名前があると言います。
以前出会った見知らぬ男が、近藤のことを〈木崎〉と呼んでいたのを、ユリカは思い出します。矢田はユリカに向かって、木崎の女になって欲しいと言います。そして木崎の情報をこちらへ流せと迫ります。候補は無数にいるが、ユリカが最も適任だと言うのです。
・・・・・・・・・・
この小説は、美しき犯罪者・ユリカが木崎と名乗る「絶対悪」の概念を体現したような「化物」と対峙する物語です。木崎が孕む「悪」の色はあくまでも黒く、圧倒的です。素性は不明で戸籍もありません。黒い世界に君臨する、さながら「王」のような存在です。
物語の第6章。いよいよユリカが正面切って木崎と対面する場面です。ここでは、木崎が木崎であるが故の、「悪」の極みを讃えるような、彼ならではの世界観が語られます。その語り口は単なる悪人の域を越えて、まさに「黒い世界」を支配する者のようです。
話は、マルキ・ド・サドの作品に登場する女たちがなぜどれも不幸になるかという問いかけを皮切りに、原始キリスト教時代に生まれた異端宗教・グノーシス主義が発生した背景やその教義の内容、果ては聖書の中に登場するカインの性向にまで及んでいきます。
木崎は、劣悪な神に関心があると言います。なぜなら、人間たちが苦痛に悶えているのを見るだけでなく、彼らの中に生じる「感情の動き」まで味わうことができ、同時に、彼らの健気な善行も眺めることができるからだと言います。そして、それが愉快だと言います。
例えば、ナイフで刺されて苦しむ男を、残忍に見るだけでも、笑いながら見るのでもつまらない。しっかり同情して、そいつの恋人や育てた親にまで想像力を働かせ、同情の涙を流しながら、しかしもっと深く、もっと深くナイフを刺す。肝心なのは、全てを余すことなく味わい尽くすことだと言うのです。
苦痛に歪む絶望の感情とその対極にある善的な感情、相反する二つの感情を自身の中で混ぜ合わせ、その神は幾千年もの歳月を悶えながら陶酔し続けているんだと言います。この相反する二つの無数のダイナミズムでこの世界は渦のように動いている、と言うのです。
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矢田は木崎の情報を流せと言い、木崎は木崎で矢田を裏切ってこれまで騙した男のリストと撮った画像や動画の全てを渡せと言います。2人に挟まれたユリカは、結局どちらの側についても身の安全が担保されることはありません。
当然の帰結として、彼女は「どちらにもつかない」ことを選びます。そして、海外へ逃げるために偽造パスポートの作成を急ぎます。果たしてユリカは、絶対的な「悪」に塗り込められた世界から逃れることができるのでしょうか。彼女の、危うい逃亡劇が始まります。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆中村 文則
1977年愛知県東海市生まれ。
福島大学行政社会学部応用社会学科卒業。
作品 「銃」「遮光」「悪意の手記」「迷宮」「土の中の子供」「何もかも憂鬱な夜に」「掏摸〈スリ〉」「悪と仮面のルール」「最後の命」「去年の冬、きみと別れ」他多数
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