『センセイの鞄』(川上弘美)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/13
『センセイの鞄』(川上弘美), 作家別(か行), 川上弘美, 書評(さ行)
『センセイの鞄』川上 弘美 平凡社 2001年6月25日初版第一刷
ひとり通いの居酒屋で37歳のツキコさんがたまさか隣あったご老体は、学生時代の国語の恩師だった。カウンターでぽつりぽつりと交わす世間話から始まったセンセイとの日々は、露店めぐりやお花見、ときにささいな喧嘩もはさみながら、ゆたかに四季をめぐる。年齢のはなれた男女の、飄々として、やがて切々と慈しみあう恋情を描き、あらゆる世代をとりこにした谷崎賞受賞の名作。(Amazon.co.jp より)
15年程も前のことです。本の造作がやさし気なのについ惹かれて、買ったような記憶があります。改めて調べてみると、えらく売れた本らしい。しかし、そんなことも、とうの昔に忘れています。今さら言うのも何ですが、ずいぶん歳を取ったものです。
当時なら、私とツキコさんは大して違わぬ年齢です。私の方が3つ、4つ上、お付き合いするなら格好の相手だと言えなくもありません。それが今ではどうでしょう、もはや誰が見ても〈ご老体〉の「センセイ」の方により近い年齢になっています。
歳の差が30ほどもある男女の恋愛話を読んで、当時の私(少なくとも今よりは断然若かった! )は何を感じ、どう思ったのか - 考えるに、曖昧で確かな覚えがありません。
いくら何でも、70に手が届こうかという年寄りの気持ちにはなれなかったはずです。と言うか、はたして私は、話のそもそもを理解した上で読んでいたのかどうか。解説には「あらゆる世代をとりこにした」とありますが、少々これには無理があるような気がします。
この小説を本当に理解するためには、やはりそれ相応の加齢が必要なのです。今の私には、それがよく分かります。歳を取って初めて分かることがあるのです。若い人が読めば、腑に落ちない部分や想像し得ない部分がどうしたって残るということです。
以前はあやふやだったセンセイの心情が、今の私なら痛いくらいに分かります。よくよく分かってしまうので、他人事ながら切なくもあり、また羨ましくもあるのです。
女性にしたところで、まだまだ駆け出しの、ハタチそこそこの〈小娘〉などではツキコさんのようにはいかないのです。酒が飲みたいからといって、仕事帰りに一杯飲み屋の暖簾をくぐり、一人カウンターで手酌をするなどという離れ業ができるはずはないのです。
小説の中では何一つそのことに触れられてはいませんが、たかが仕事帰りの一杯と言えども、そもそも37歳で独身のツキコさんが、いかなる経緯のもとで一人酒を嗜むに至ったのか、そのことに深く思いを巡らせなければなりません。
・・・・・・・・・・
一方の、センセイ - かつての高校時代の恩師である先生の名前を忘れていたので、「センセイ」。ツキコさん的には、それは「先生」でもなく、「せんせい」でもなく、断じてカタカナの「センセイ」なのです。
ツキコさんは、ほとんどのことを忘れています。担任だったわけでもなく、国語の授業を特に熱心に聞いたわけでもなかった彼女のことを、センセイが覚えていたのです。覚えていて、わざわざ名簿とアルバムを調べて、ツキコさんの名前も齢も知っていたのです。
センセイが初めてツキコさんに声をかけるシーン - 普通のラブストーリーでも、作家さんがおそらく一番心を砕いて工夫をするところ。いかにも自然で、しかもさり気にさもありなんと思わせなければならない場面です。この小説では、それがこんな風に始まります。
数年前に駅前の一杯飲み屋で隣あわせて以来、ちょくちょく往来するようになった。センセイは背筋を反らせ気味にカウンターに座っていた。
「まぐろ納豆。蓮根のきんぴら。塩らっきょう」カウンターに座りざまにわたしが頼むのとほぼ同時に隣の背筋のご老体も、「塩らっきょ。きんぴら蓮根。まぐろ納豆」と頼んだ。
趣味の似たひとだと眺めると、向こうも眺めてきた。どこかでこの顔は、と迷っているうちに、センセイの方から、「大町ツキコさんですね」と口を開いた。
ま、そんなことで2人はお近づきになるわけです。が、これって、センセイ的には最初っからツキコさんに目を付けていたということですよ、きっと。話すきっかけが来るのを今か今かと待ち焦がれて、やっとそのタイミングが来たのです。でなきゃ、普通ここまで同じ注文になどなるわけがないのです。
しかし、同じ居酒屋で飲むと言っても、わざわざ待ち合わせをしたり、日にちを決めるわけではありません。偶然にタイミングが合えば一緒に飲むだけで、支払いはいつも折半、これといったことのない関係がしばらく続きます。
センセイとツキコさんの間には、何ひとつ慌てる様子がありません。2人は、ぬるめのお風呂にゆっくりと浸かっていくように、あわあわと恋愛に入り込んでいきます。どうかして2人があやしい気配になるのは、まだまだ、まだまだずっと先のことです。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆川上 弘美
1958年東京都生まれ。本名は山田弘美。
お茶の水女子大学理学部卒業。高校の生物科教員などを経て作家デビュー。俳人でもある。
作品 「神様」「溺レる」「蛇を踏む」「真鶴」「ざらざら」「風花」「天頂より少し下って」「パスタマシーンの幽霊」「どこから行っても遠い町」他多数
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