『昭和の犬』(姫野カオルコ)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/13
『昭和の犬』(姫野カオルコ), 作家別(は行), 姫野カオルコ, 書評(さ行)
『昭和の犬』姫野 カオルコ 幻冬舎文庫 2015年12月5日初版
昭和三十三年滋賀県に生まれた柏木イク。気難しい父親と、娘が犬に咬まれたのを笑う母親と暮らしたのは、水道も便所もない家。理不尽な毎日だったけど、傍らには時に猫が、いつも犬が、いてくれた。平凡なイクの歳月を通し見える、高度成長期の日本。その翳り。犬を撫でるように、猫の足音のように、濃やかで尊い日々の幸せを描く、直木賞受賞作。(幻冬舎文庫解説より)
私は、二度母親を亡くしています。一度目は私が3歳の時、母は30歳を過ぎたばかりの頃のことです。二人目の母が56歳で亡くなった時、私は34歳。妻がいて、2人の息子の父親になっていました。
一度目の母、つまり私を産んでくれた母についての記憶はまったくありません。亡くなる間際は当然枕元にいたろうと思うのですが、ときの気配すら残っていません。あるのは白黒写真に納まった在りし日の姿ばかりで、生きて動いている母は知らないのです。
私には歳の離れた姉が2人います。子供を3人も抱え、仕事もままならなくなった父が再婚した(できた)のは、今から思うと奇跡のようなことです。少し大きくなっていた私は、形ばかりの婚礼で、紅い着物を羽織った二人目の母の姿をはっきり覚えています。
継母は初婚で、当時28歳。父は37歳になっています。年齢こそ許容の範囲とは言え、初めて結婚する相手に、母はわざわざ(3人もの)子持ちの男を選んだわけです。
今なら28歳という年齢はごくごく普通に結婚適齢期と言って良いのでしょうが、おそらく当時は適期をとうに過ぎていたのでしょう。結婚したくないから「しない」のではなく、母は結婚したくても「できず」にいたのです。その理由が、確かにあったのです。
母には「てんかん症」の持病がありました。結婚してから亡くなるまで、多い時には1年に三度か四度、少ない時でも一度か二度は必ず白目を剥いて倒れます。暫くの間全身が痙攣し、相手を睨みつけて犬が低く唸るような、気味の悪い声を出します。
これも今思うとどうかと思うのですが、母が倒れても、父は救急車を呼ぶでなし、病院へ行けとも言いません。家のどこかで倒れた母を、父と私で寝間に運んで寝かせるばかりです。2人の姉は決して近寄りません。自分達の部屋に入って、ないふりを通します。
母が嫁いで来たのは、昭和36年。当時田舎では誰しもがそんなことであったのか、あるいは結婚前に父は聞いていたのかも知れません。発作を起こしても暫く寝ていれば治るから - それはその通りで、2、3日大人しくしていると、母はすっかり元通りになります。
たまに玄関先などで倒れたとき - それは決まって小用に行ったときのことです - ズボンも下穿きも足首まで下したままで痙攣していることがあります。そんな時に限って、近所の誰かが、何かの用向きで家にやって来たりします。
小学校の高学年になっていた私は、母の身体を気遣うより先に、恥ずかしいのと、なぜ「この人」を母としなければならないのかという憤りを抑えることができずに、ほんの僅かな時間、静かに泣いたりもしました。
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後年の母は、加齢とともに倒れる度合いが減り、その際の症状もやや和らいだものになります。何よりの変化は変調に気付くとすぐに寝込むようになったこと - 間際まで隠し通そうとする頑固さが影を潜めて、具合が悪いのを素直に認めて養生するようになります。
息子が2歳か3歳になった頃のことです。両親は1階の畳の部屋で、私達夫婦と子供は2階の洋間で寝ていました。ところがある日、寝る頃になると、息子は読めもしない絵本を抱えてさっさと母の寝床へもぐり込んでは、母に向かってこれを読めと催促します。
父と母は、2組の布団を敷いて並んで寝ています。その頃はまだ、昔ながらの重たい綿布団だったのだと思います。年寄りの体臭が沁み込んだ古い布団になど入るはずもないと思っていたのですが、それからの毎日、息子は決まったように母の布団で寝るようになります。
たまの休日に外食に誘うと、父は大概お前たちで行って来いと言い、母は必ず一緒について来ます。食事をして、日頃一人では行けないような郊外の量販店に立ち寄ったりします。何を買うでもないのですが、それでも母は十分楽し気でした。もう25年も前のことです。
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小説の主人公であるイクが、もう話すこともできなくなった母親の食事を見守るシーンがあります。パーキンソン病で入院している母親は筋力が衰えて、自力で食べることができません。食事は流動食で、腹に取りつけられた胃瘻装置を使って体内へ注入されます。
食事の間も瞼は閉じられたまま。それでも - お腹がふくれるので - やすらかな顔になるのが分ります。そんな母の様子に、イクはこんなことを思います。
味もわからぬ胃瘻では一抹のうれしさかもしれないが、見栄も露悪も偽善も卑下も自責も怨恨も凌駕して、空腹が充たされると感情のベクトルは正方向に動く。それはしかし、それがしかし、生きているということであろう。
この小説は、柏木イクという女性が一風変わった両親と共に歩んだ、しかし何ら特別なことのない半世紀を描いた物語です。誰の中にもこの小説に似た風景があり、私にとってのそれは二人目の母といたそれぞれなのです。イクと私は、たったのふたつ違いです。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆姫野 カオルコ(姫野 嘉兵衛と表記することもある)
1958年滋賀県甲賀市生まれ。
青山学院大学文学部日本文学科卒業。
作品 「ひと呼んでミツコ」「受難」「ツ、イ、ラ、ク」「ハルカ・エイティ」「リアル・シンデレラ」「部長と池袋」他多数
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