『脊梁山脈』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『脊梁山脈』(乙川優三郎), 乙川優三郎, 作家別(あ行), 書評(さ行)

『脊梁山脈』乙川 優三郎 新潮文庫 2016年1月1日発行

上海留学中に応召し、日本へ復員する列車の中で、矢田部は偶然出会った小椋に窮地を救われる。帰郷後、その恩人を捜す途次、男が木地師であることを知った矢田部は、信州や東北の深山に分け入る。彼らは俗世間から離れ、独自の文化を築いていた。山間を旅するうち、矢田部は二人の女性に心を惹かれ、戦争で失われた生の実感を取り戻していく・・・。大絶賛を浴びた著者初の現代長編。(新潮文庫解説より)

三浦しをんが書いた帯文を読んで、つい手に取ってしまいました。そこには、こう書いてあります -「感動という言葉ではたりない心の震えを覚えた。ああ、なんという小説だろう。すごすぎる。」-『脊梁山脈』は著者初の現代小説、大佛次郎賞受賞作品です。

脊梁とは「背骨」のこと。この物語の主人公・矢田部信幸は、かつて復員兵専用列車の中で行き合った「小椋康造」なる人物を訪ねて山谷を旅する人となります。その旅も終わろうかという頃、彼は奥羽山脈の脊梁にあたる山中で「木地師」の墓に行き当たります。

※ 木地師とは、轆轤(ろくろ)を用いて椀や盆等の木工品を加工、製造する職人のこと。近江国蛭谷(現:滋賀県東近江市)に端を発し、惟喬親王の家来・小椋秀実の子孫を称し、諸国の山に入り山の七合目より上の木材を自由に伐採できる権利を与えられていたと言います。彼らは定住することがありません。木を求め、山中を移動しながら暮らしています。

現れたのは、十六弁の菊花紋章が刻まれた墓石 - 息がとまり、かっとした信幸は反射的に直立不動の姿勢になって敬礼します。あとから思うと、それは今上天皇へ向けた敬礼だったのですが、東北の山中に天皇家の墓などあるはずがありません。

よく見ると、菊花紋の下には戒名が刻まれています。信幸は敬礼して硬直した手をどうにか胸まで下し、手を合わせます。草丈よりも低い野石の頭部に思えたそれは、疑いようもなく信州木地師の墓だったのです。
・・・・・・・・・・
矢田部信幸は、福島県出身。上海の東亜同文書学院に留学し、学徒動員で現地入隊します。青春の一時期を戦争に奪われ、戦火の中数多くの悲惨な現実を目にし、少尉として敗戦を迎えます。終戦の翌年の昭和21年、ようやく信幸にも日本へ戻る日がやって来ます。

この時、信幸は23歳。故郷へ帰る復員列車の中で、彼は酷い腹痛を起こします。それを介抱したのが小椋康造 - 彼は、信幸と同じ中国からの復員兵でした。・・・

・・・ これが物語の発端。このあと、信幸は故郷の福島県平(たいら)に帰り、康造は故郷の山へ帰る -「山に籠って暮らします。二度と町へは下りてこないつもりです。以前のように畑の世話をして、山から木材をもらって、静かに生きてゆきます」と語ります。

康造がそう語ったとき、信幸はまだ何も知りません。康造の語ったそれが木地師の暮らしだと信幸が知るのは、少しあとになってからのことです。

今後を生きる手立てと信念を持つ康造に対して、これというあてもなくその日の暮らしに追われるだけの信幸 - 父親は亡くなり、一人畑を耕す母親はすっかり老け込んでいます。弟はフィリピンで戦死したと聞き、なすすべがありません。

信幸の人生が動き出すのは、それからしばらく経った後のことです。父親の遺した株の価格が上がって、一財産になります。さらに、石材店を経営していた伯父が亡くなり多額の遺産を相続するに至って、これを転機にと、信幸は旅に出ることを思い立ちます。

その時心にあったのが、復員列車で出会った小椋康造のことです - 康造は今、どんな暮らしをしているのか・・・

たまさか列車で知り合っただけの男に、善意という言葉だけでは足りない、親切の限りを尽くしてくれた康造との出会いは、信幸にとって、戦争が終わってはじめて触れた普通の日本人の温もりであり、忘れられない、貴重な出来事として心に留まっています。

その康造と再会し、改めて礼を言い、そして語り合いたい。何としても康造に会いたいという思いが、やがて信幸に木地師の存在を知らしめ、そのうち、山に籠ると言って立ち去った小椋康造その人が「木地師」であるとわかります。

こうして信幸の旅は始まります。旅の目的はあくまで康造の居所を見つけること。しかし、そのうち信幸は、歴史の裏に隠れた木地師の来歴にも強く惹かれるようになってゆきます。

この小説が優しく慈愛に満ちたものに感じるのは、主人公である信幸の真摯さばかりのことではありません。登場人物はおしなべて善人、中で信幸を支える女性たちのそれぞれが、時代の不幸に晒されながら尚気丈に生きようとする姿に胸が痛んで震えます。

信幸が故郷へ帰る途中の東京駅で、偶然のようにして姿を現わす佳江。康造を訪ね歩く旅中で出会った木地師の娘、多希子。佳江に寄り添う在日朝鮮人の津音。信幸の母。その母を世話する女中の寿々、・・・ 皆が等しく強く、また哀しくもあります。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆乙川 優三郎
1953年東京都生まれ。
千葉県立国府台高校卒業。

作品 「藪燕」「霧の橋」「五年の梅」「生きる」「武家用心集」「蔓の端々」他多数

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