『トリツカレ男』(いしいしんじ)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/13 『トリツカレ男』(いしいしんじ), いしいしんじ, 作家別(あ行), 書評(た行)

『トリツカレ男』いしい しんじ 新潮文庫 2006年4月1日発行

ジュゼッペのあだ名は「トリツカレ男」。何かに夢中になると、寝ても覚めてもそればかり。オペラ、三段跳び、サングラス集め、潮干狩り、刺繍、ハツカネズミetc. そんな彼が、寒い国からやってきた風船売りに恋をした。無口な少女の名は「ペチカ」。悲しみに凍りついた彼女の心を、ジュゼッペは、もてる技のすべてを使ってあたためようとするのだが・・・・。まぶしくピュアーなラブストーリー。(新潮文庫解説より)

久しぶりに京都へ行きました。琵琶湖の西岸から途中峠を越えて、八瀬へ出ます。京都の北東部 - 白川通りを南に下って北大路通りまで行くとそこを右折、踏切を渡り、すぐにある側道を北に向かって少し戻ると、叡山電鉄・一乗寺駅に行き当たります。

駅の前が曼殊院道。さして広くもない通りを西に行くと、通りの角に開店前(改装中)の小さな店舗があります。そこが4月オープン予定の糸の専門店、「AVRIL Pepin」。(Pepinは 仏語で「種」。糸あそびの種が詰まった店ですよ、ということらしい)

その日の第一の目的が、AVRILの確かな場所を現認すること。但し、私の(目的)ではありません。同乗者、つまりは私の妻の目的で、三条辺りにあった店が移転するのに、この先一人で行けるよう下調べをしたいと思ってのことです。

内装作業に忙しそうなAVRILを過ぎてほんの少し行くと、通りに面してちょっと古びた横長の建物があります。そこが「恵文社 一乗寺店」。ちょっと見ブティックかレストランのようにも見えますが、(おそらくは知る人ぞ知る)一風変わった本屋さんです。

建物もそうなら、置いてある本もそう。その日のもう一人の同乗者、妻の母、80を過ぎたおばあちゃんには「古本屋みたい」に見えたらしい。確かに、言われてみればそう思えなくもありません。(一番売れるであろう)雑誌や漫画の類は一切ありません。

平積みの本もごく僅かで、一冊一冊が別々に、表紙が見えるように並べてあります。ジャンルを別つ表示もなくて、「新刊コーナー」などというのも見当たりません。見ると、新刊・既刊が一緒に、作家毎、(単行本も文庫本も)同じところに置いてあったりします。

奥の一角にはずらーっと、三島由紀夫の文庫本だけが並んでいます。平日の昼間ということもあり店内は至って静かで、とっても多いという程ではありませんが、それなりにお客さんはおり、皆がゆっくりと店内を巡回しています。

喩えて言うなら「画廊」のような本屋さん、と言えばよいのでしょうか。全部を細かく見たわけではありませんが、レジ奥のスペースを見ると、全てが「絵本」の棚になっています。そこには、堂々と、まるで「絵画」のようにして絵本が「展示」してあります。

いつも行くような本屋さんだと、大概は縦に並べて置いてあります。形はバラバラで、結構幅も取ります。文芸書と比べれば数は遙かに少なく、目立つ場所には置きづらい。ところがそこでは十分スペースが確保されており、一冊ずつ、きちんと横に並んでいるのです。

何だかちょっと嬉しくもあり、他ではまず買うことのない本を買いました。「いしいしんじ」という作家さんはちょっと変わった人だというくらいにしか知らない人で、初読みです。4,5冊あった文庫の中から、日頃一番買わなさそうな本を選んで買うことにしたら、それが『トリツカレ男』だったという次第です。
・・・・・・・・・・
この後、今宮神社へ行き、門前にある古いお店で名物の「あぶり餅」を3人して食べました。これは今年のお正月に来て、あまりの人の多さに叶わなかったことです。一度、どうしてもおばあちゃんに食べさせたい - そんな気持ちでいました。

京都へ行った、実はこれが本当の目的。おばあちゃんが気を使うと悪いので、糸屋探しを理由にして連れ出したのです。おばあちゃんは白味噌で作ったタレが美味しいと言って、皿まで舐めようかというくらいに喜んでくれました。

義父が亡くなり、今は義母一人で暮らす家まで戻り、風呂を貰って帰ることにしました。その晩何気に読み出したのですが、あっという間に読めます。元々160ページほどの作品でさして長くもないのですが、行間が広く取ってあり、サクサク読めてしまいます。

まるで「童話」を読んでいるようでもありますが、幼稚なわけではありません。大人が読んで、しっかり感動します。感動以上に、(特に男性は)教わるものがあります。

まるで役に立たない、まったくもってどうでもいいようなことに、なぜ「トリツカレ」てしまうのか。ジュゼッペは実におかしな男です。一度トリツカレたら、彼の執拗さは尋常ではありません。

大概はろくでもない結果に終わるのですが、ジュゼッペは「トリツカレ男」であるのをやめようとはしません。少しは役に立つ、本気を続けるならきっと報われることがある。そう、何かちょっとしたことで。そう思う内に、彼は途方もないことを成し遂げます。

まことにピュアーで、穢れがありません。ベタな言い方ですが、心が洗われるようです。何だかだと雑事に気を病む毎日にあって、たまにある今回の京都行きのような、まこと穏やかにすごせた日にこそ似つかわしい本であります。

この本を読んでみてください係数 85/100


◆いしい しんじ
1966年大阪府大阪市生まれ。
京都大学文学部仏文科卒業。

作品 「アムステルダムの犬」「東京夜話」「ぶらんこ乗り」「麦ふみクーツェ」「プラネタリウムのふたご」「ポーの話」「みずうみ」「ある一日」「四とそれ以上の国」など

関連記事

『空中ブランコ』(奥田英朗)_書評という名の読書感想文

『空中ブランコ』奥田 英朗 文芸春秋 2004年4月25日第一刷 『最悪』『邪魔』とクライム・ノ

記事を読む

『ミセス・ノイズィ』(天野千尋)_書評という名の読書感想文

『ミセス・ノイズィ』天野 千尋 実業之日本社文庫 2020年12月15日初版 大ス

記事を読む

『骨を彩る』(彩瀬まる)_書評という名の読書感想文

『骨を彩る』彩瀬 まる 幻冬舎文庫 2017年2月10日初版 十年前に妻を失うも、最近心揺れる女性

記事を読む

『太陽の塔』(森見登美彦)_書評という名の読書感想文

『太陽の塔』森見 登美彦 新潮文庫 2018年6月5日27刷 私の大学生活には華が

記事を読む

『末裔』(絲山秋子)_書評という名の読書感想文

『末裔』絲山 秋子 河出文庫 2023年9月20日 初版発行 家を閉め出された孤独な中年男の

記事を読む

『妻は忘れない』(矢樹純)_書評という名の読書感想文

『妻は忘れない』矢樹 純 新潮文庫 2020年11月1日発行 葬儀の晩に訪れた、前

記事を読む

『たゆたえども沈まず』(原田マハ)_書評という名の読書感想文

『たゆたえども沈まず』原田 マハ 幻冬舎文庫 2024年2月10日 16版発行 天才画家ゴッ

記事を読む

『幻の翼』(逢坂剛)_書評という名の読書感想文

『幻の翼』逢坂 剛 集英社 1988年5月25日第一刷 『百舌の叫ぶ夜』に続くシリーズの第二話。

記事を読む

『どこから行っても遠い町』(川上弘美)_書評という名の読書感想文

『どこから行っても遠い町』川上 弘美 新潮文庫 2013年9月1日発行 久しぶりに川上弘美の

記事を読む

『帝都地下迷宮』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『帝都地下迷宮』中山 七里 PHP文芸文庫 2022年8月17日第1版第1刷 現代

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『滅私』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文

『滅私』羽田 圭介 新潮文庫 2024年8月1日 発行 「楽っ

『あめりかむら』(石田千)_書評という名の読書感想文

『あめりかむら』石田 千 新潮文庫 2024年8月1日 発行

『インドラネット』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『インドラネット』桐野 夏生 角川文庫 2024年7月25日 初版発

『ブルース Red 』(桜木紫乃)_書評という名の読書感想文

『ブルース Red 』桜木 紫乃 文春文庫 2024年8月10日 第

『境界線』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『境界線』中山 七里 宝島社文庫 2024年8月19日 第1刷発行

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑