『阿弥陀堂だより』(南木佳士)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『阿弥陀堂だより』(南木佳士), 作家別(な行), 南木佳士, 書評(あ行)

『阿弥陀堂だより』南木 佳士 文春文庫 2002年8月10日第一刷

作家としての行き詰まりを感じていた孝夫は、医者である妻・美智子が心の病を得たのを機に、故郷の信州へ戻ることにした。山里の美しい村でふたりが出会ったのは、村人の霊を祀る「阿弥陀堂」に暮らす老婆、難病とたたかいながら明るく生きる娘。静かな時の流れと豊かな自然のなかでふたりが見つけたものとは・・・・。(文春文庫より)

なだらかな山の中腹にある阿弥陀堂の前庭からは六川集落の全景を見渡すことができます。幅三メートルばかりの六川の向こう岸に十戸、こちら側に十三戸。朽ちかけた欄干の古い木橋で結ばれた、合わせて二十三戸のこぢんまりとした山あいの集落です。

七つの集落からなる谷中村は、上流で六つの沢が合流して六川と名づけられた渓流が作られ、これに沿って七つの集落が上から下へ並んでいます。わずかな平地、車一台分の幅しかない村道、その最も高いところにあるのが六川集落で、

そのまだ先の高みにある阿弥陀堂にいて、孝夫は大きく上体を反らせてため息をつきます。あらためて見渡すと、いかにも狭く、貧相な集落に思えます。瓦屋根の家は一軒もなく、すべての家のトタン屋根は例外なく赤錆に浸食されています。

薄茶色に乾ききった土壁の崩れた廃屋が向こう岸に三軒、こちらに二軒。昨日、妻の美智子と二人で集落全戸にあいさつ回りをしたのですが、老人の独り暮らしの家が九軒。老夫婦だけが五軒。老夫婦と嫁の来ない長男のいる家が三軒。

残る一軒、向こう岸の神山さんの家だけが老夫婦と長男夫婦、それに町の高校と中学に通う娘がいて、まるで無形文化財のような一昔前の村の一般家庭の様子が見て取れます。

主人公の上田孝夫は、六川集落の生まれにして売れない作家 - ある文芸誌の新人賞を獲ったまではよかったのですが、それ以降は鳴かず飛ばず。ほとんど書くのをやめた状態でいます - で、

一方、六川に来る少し前までの美智子はというと、(将来を嘱望された)先端医療に携わる現役の医者だったのですが、ある事情で心を病み、夫の故郷である山深い寒村を後半生の定住の地と決め、二人して新たな暮らしを始めようとしています。

そこで二人が出会うことになる最初の人物が、阿弥陀堂守の「おうめ婆さん」と呼ばれる御年九十六歳になる老女。おうめ婆さんは黒いもんぺに手縫いらしきあせた灰色のブラウスを着て、頭に谷中村農協の手拭いをかぶり、右手には太い桑の木の杖をついています。

谷中村の七つの集落にはそれぞれに阿弥陀堂があり、堂守がいます。いずれの集落でも堂守は身寄りのない老婆の役目で、集落全体の仏壇である阿弥陀堂に住んで、村人の総代として毎日花や供物をあげ、堂の掃除をし、その代価として村人は米や味噌を届けます。

これはいわば生活保護によく似た村の福祉制度で、堂守が死ぬと次の堂守を決めるのは各戸の代表が集まる阿弥陀堂での通夜の寄り合いでのこと。そこで新しい堂守に指名された老婆が喪主となって葬儀が施行されます。

孝夫が小学生の頃、おうめ婆さんはすでに立派な老婆であり、身寄りはなく、十分に貧乏で、それなりにふさわしい六川集落の阿弥陀堂守であったわけですが、久しぶりに見る老女の姿は祖母に連れられて来たときの残像となんら変わったところがありません。それほどにおうめ婆さんは矍鑠としています。

孝夫と美智子が次に出会うのが、石野小百合という女性。彼女は役場の助役の一人娘で、去年、東京の大学を出て役場に入り、今は『阿弥陀堂だより』というコラムを担当しています。訊くと小百合は孝夫の大学の後輩にあたり、後に、妻の美智子の患者になります。

小百合は口をきくことができません。彼女が声を失くしたのは大学生のときで、喉に悪性の肉腫ができ、治療に使われた放射線による障害で声帯が動かなくなっています。肉腫は治っているものの経過観察が必要で、美智子のいる村の診療所に通うことになります。

さて、ここまでが物語の前段。このあと、おうめ婆さんと小百合、中に『阿弥陀堂だより』を挟み、孝夫と美智子はそれまではそうあるべきだと固く念じていたはずの生きる上での信条というものが、如何にも頑なで、わざと無理ばかりをしていたように感じられてきます。

感じるほどに二人は六川集落での暮らしに馴染み、ある時、若い頃なら追っ払って終わりにしたはずのノラ猫の母子が哀れなあまり牛乳など与えてしまった自分に驚いて、孝夫は「おれたちも歳なのかなあ」と美智子に向かって声をかけます。

「もののあわれっていうか、命のはかなさ、人生の一回性、そういうものが実感として分かる年齢になってしまったのよね、きっと」- 美智子はそう言い、以前は動物嫌いだったはずの彼女が、子猫の頭をなでながら、山際の赤い夕空を仰ぎ見るのでした。

この本を読んでみてください係数  85/100


◆南木 佳士
1951年群馬県吾妻郡嬬恋村生まれ。
秋田大学医学部卒業。

作品 「破水」「ダイヤモンドダスト」「家族」「信州に上医あり-若月俊一と佐久病院」「医者という仕事」「海へ」「臆病な医者」他

関連記事

『私以外みんな不潔』(能町みね子)_書評という名の読書感想文

『私以外みんな不潔』能町 みね子 幻冬舎文庫 2022年2月10日初版 他の子供に

記事を読む

『坊さんのくるぶし/鎌倉三光寺の諸行無常な日常』(成田名璃子)_書評という名の読書感想文

『坊さんのくるぶし/鎌倉三光寺の諸行無常な日常』成田 名璃子 幻冬舎文庫 2019年2月10日初版

記事を読む

『犬』(赤松利市)_第22回大藪春彦賞受賞作

『犬』赤松 利市 徳間書店 2019年9月30日初刷 大阪でニューハーフ店 「さく

記事を読む

『私の消滅』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『私の消滅』中村 文則 文春文庫 2019年7月10日第1刷 「このページをめくれば

記事を読む

『プリズム』(貫井徳郎)_書評という名の読書感想文

『プリズム』貫井 徳郎 創元社推理文庫 2003年1月24日 初版 女性教師はなぜ

記事を読む

『王国』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『王国』中村 文則 河出文庫 2015年4月20日初版 児童養護施設育ちのユリカ。フルネーム

記事を読む

『迷宮』(中村文則)_書評という名の読書感想文

『迷宮』中村 文則 新潮文庫 2015年4月1日発行 すべての始まりは、日置事件でした。

記事を読む

『暗幕のゲルニカ』(原田マハ)_書評という名の読書感想文

『暗幕のゲルニカ』原田 マハ 新潮文庫 2018年7月1日発行 反戦のシンボルにして20世紀を代表

記事を読む

『青い壺』(有吉佐和子)_書評という名の読書感想文

『青い壺』有吉 佐和子 文春文庫 2023年10月20日 第19刷 (新装版第1刷 2011年7月

記事を読む

『今だけのあの子』(芦沢央)_書評という名の読書感想文

『今だけのあの子』芦沢 央 創元推理文庫 2018年7月13日6版 結婚おめでとう、メッセージカー

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『オーブランの少女』(深緑野分)_書評という名の読書感想文

『オーブランの少女』深緑 野分 創元推理文庫 2019年6月21日

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

『百年と一日』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『百年と一日』柴崎 友香 ちくま文庫 2024年3月10日 第1刷発

『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑