『猿の見る夢』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/12
『猿の見る夢』(桐野夏生), 作家別(か行), 書評(さ行), 桐野夏生
『猿の見る夢』桐野 夏生 講談社 2016年8月8日第一刷
薄井正明、59歳。元大手銀行勤務で、出向先ではプチ・エリート生活を謳歌している。近く都内に二世帯住宅を建築予定で、十年来の愛人・美優樹との関係も良好。一方、最近は会長秘書の朝川真奈のことが気になって仕方ない。目下の悩みは社内での生き残りだが、そんな時、会長から社長のセクハラ問題を相談される。どちらにつくか、ここが人生の分かれ道 - 。帰宅した薄井を待っていたのは、妻が呼び寄せたという謎の占い師・長峰。この女が指し示すのは、栄達の道か、それとも破滅の一歩か・・・・。(講談社)
帯に「週刊現代」の人気連載、ついに書籍化! 、とあります。世のサラリーマン(もちろんサラリーマンに限ったことではありません)、中で名のある会社に勤め、苦労するも昇進を重ね、今まさに組織の中核をなさんとする貴殿にこそ読んでほしいと思う一冊です。
全てがあてはまらないまでも、読んで損することはないと思います。むしろ大いに感謝されるやも知れません。だって、長い仕事人生、定年間際に至って人に言えない疚しい事の一つや二つは、いかな貴殿と言えどもきっとお持ちのはずでしょうから。
還暦、定年、そして、何の不安もない老後。このまま行けば誰もが羨むような、描いた通りの第二の人生が始まる - 女性衣料の製造小売業「OLIVE」の財務担当取締役、薄井正明は、そう信じて疑わない日々を過ごしています。
薄井が東京CSU銀行から、担当していたOLIVEに出向を命ぜられたのは今から13年前、46歳の時のことです。当時OLIVEは上場したばかりで、繊維問屋から出発した女性衣料チェーン店への出向など都落ちではないかと腐る思いもなくはなかったのですが、
その後OLIVEは、驚くことに、目覚ましい躍進を遂げ、大手ファストファッション・チェーンに成長します。薄井の目下の関心は、80歳を前にした会長の織場との関係で、(織場に引っ張られた手前)何かあった時に次の席がなくなるのではないかという不安があります。
織場が権力を持つ会長として、あと五、六年頑張ってくれれば何とかなりそうだが、現社長の福原に実権が移るようなことがあれば、自分の未来はどうなるかわからない。せめて常務に昇格し、何とか65歳まで勤め上げたい、というのが薄井の願いであるわけです。
薄井という男は優秀には違いないのですが、元来人が好くて根っからの真面目人間ではありません。自分にとり、その場が都合よく収まればそれで良しとする傾向があります。優柔不断で未練がましくもあり、何より妻以外の女性に対する執着は並大抵ではありません。
10年来の愛人・美優樹がおり、今はまた会長秘書の朝川真奈をしてどうにかなりそうだなどと邪なことを考えてもいます。薄井にとって定年後というのは、単に経済的に盤石なだけでなく、定期的にセックスできる、妻以外の愛人がいてこそのことなのです。
・・・・・・・・・
薄井の妻・史代が呼び寄せた謎の占い師の話をしましょう。60半ば頃の老女、長峰と名乗る占い師は、夢で依頼人の行く末がわかると言います。
薄井は端から長峰を信用していません。妻が支払った法外な料金を取り戻そうとして長峰の住む大邸宅へ押しかけた時のことです。長峰は「あなた、三猿って知ってる? 」と訊き、「あれはね、本当は四猿なのよ。ご存じでした? 」と、古びた一枚の写真を取り出します。
それはぼけたモノクロ写真で、猿が股間を押さえている木像が写っています。「それは、『せ猿』というのです」- これも左甚五郎の作ではあるが、三猿の方が語呂がよく、『せ猿』の像は下品だからという理由で宝物館の奥深く仕舞われてしまったのだ言います。
「見ざる、聞かざる、言わざるは、まるでことなかれ主義の権化みたいに言われていますよね。でも、本当は違うんです。礼なきことは見ない、聞かない、言わない。おのれを律する教えなんですの。(後略)」
「礼なきことはしてはいけないのです。なのに、人間は愚かしくて、すぐ自分の欲望に負けてしまう。だから、『せ猿』は、姦淫に対する欲望を戒めているのですよ」そう言ったあと続けて、「私には、この『せ猿』の戒めを受けるべき人が誰か、よくわかるんです。その人が今後どうしたらいいかも。全部夢に出てくるんです。薄井さんも、その一人ですよ」と諭すように話しかけます。
しかし、薄井は結局最後まで長峰の忠告を聞こうとはしません。相変わらず妻以外の女性にうつつを抜かし、認知症を患う母親の介護一切を妹の志摩子に任せ、亡くなるまで見ないふりを通します。そして、気付けばOLIVEは思いもしない事態になっています。
ここに至って初めて薄井は長峰のことを頼ろうとするのですが、彼女は既に姿を消しています。時すでに遅し - 呆れるくらい「わかっていない男」、どこまでも「終われない男」の身に降りかかる悲喜劇を存分に味わってください。薄井をして桐野夏生は「これまでで一番愛おしい男を書いた」と言い、大きく帯文には、桐野文学の新たな代表作とあります。
この本を読んでみてください係数 90/100
◆桐野 夏生
1951年石川県金沢市生まれ。
成蹊大学法学部卒業。
作品 「顔に降りかかる雨」「OUT」「グロテスク」「錆びる心」「ジオラマ」「東京島」「IN」「ナニカアル」「夜また夜の深い夜」「奴隷小説」「バラカ」他多数
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