『貴婦人Aの蘇生』(小川洋子)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『貴婦人Aの蘇生』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(か行)

『貴婦人Aの蘇生』小川 洋子 朝日文庫 2005年12月30日第一刷

北極グマの剥製に顔をつっこんで絶命した伯父。死んだ動物たちに刺繍をほどこす伯母。この謎の貴婦人はロマノフ王朝の最後の生き残りなのか? 『博士の愛した数式』で新たな境地に達した芥川賞作家が、失われた世界を硬質な文体で描く、とびきりクールな傑作長編小説。(朝日文庫)

「ねえ、裁縫箱を出してくれない? 」- ユーリ伯母さんは一晩に最低でも二つの刺繍を仕上げた。

対象物が小さくて図案も最小の型紙で済むような場合(例えばジャンガリアンハムスターの毛皮の敷物や、山羊のあご髭で編んだコースターなど)、四つ、五つとはかどることさえあった。もちろん図案は例外なく、蔓バラに囲まれたアルファベットの飾り文字Aだった。

同じ模様ばかりで飽きはしないかと注意深く私が尋ねると、「あらまあ、どうして? 」と、質問の意味が分からないという口調で伯母さんは答えます。

「だって自分の名前をサインするのに飽きる人なんて、世の中にいるかしら」・・・・と。

伯母さんの名前は正式にはユリア、但しこれはパスポートに記載されているだけで、普段使っていたのはユリ子。親戚の間で通っていた愛称はユーリ伯母さんでした。死んだ伯父さんの名前にも、住んでいる地名にも、生まれ月にもAの文字は見当たりません。

伯父さんが収集した動物製品(夥しい数の動物の剥製や毛皮類といったもの)たちはどれもグロテスクで悪趣味なのですが、刺繍が加わることで更に奇っ怪さが増し、その動物が本来備えていた絶妙なバランスさえもが、損なわれてゆきます。

ベンガルトラの発達した太ももが、カモシカのしなやかな背中が、そこだけ不細工に間が抜け、引きつれを起こし、質の悪い腫瘍に冒されたかのようになってしまっています。

しかし、もちろんユーリ伯母さんはそんなことに囚われたりしません。伯父さんの思い出が染みついた、そしてたぶんかなり高価な品であるはずの毛皮たちを、自分が台無しにしているなんて思ってもいません。むしろ反対に、なくてはならない大事な刻印を、一つ一つ施しているのだとでも言いたげな様子で、針を動かしてゆきます。
・・・・・・・・・
二人が結婚したのは伯父さんが51歳、伯母さんが69歳の時のことです。最初伯母さんは莫大な財産が目当てで結婚したのではないかと疑われもしたのですが、やがてそんなことにはおよそ興味がないのが分かります。

すぐに駄目になるだろうという大方の予測に反し、結婚生活は10年と少し続きます。まるで伯父さんの影には元々伯母さんの身体に合わせた凹凸があって、彼女がそこへ自分をはめ込んでいるかのような暮らしぶりであったといいます。

結婚直後の喧騒が去ると、多くの人々がユーリ伯母さんから関心を無くします。彼女は害にも得にもならない、ただの歳を取った伯母さんに過ぎなくなります。
・・・・・・・・・
(ここから物語が動き出すのですが)ある日、ユーリ伯母さんを訪ねて一人の男がやって来ます。フリーライター/小原憲治、と名刺には書いてあります。(この人物は以後「オハラ」と表記されます。物語の鍵を握る、大変重要な人物です)

このときユーリ伯母さんがいるのはかつて伯父さんと暮らした、郊外の湖のほとりにある大きな洋館で、そこには伯父さんが遺したコレクション - 剥製、毛皮、角の類など、死んだ動物の肉体にかかる数え切れない収集品 - が溢れ返らんばかりになっています。

ユーリ伯母さんの面倒をみているのは「私」- 私はまだ大学生で、母と伯父さんが兄妹だったため、大学への資金援助を条件に伯母さんと二人暮らしをするようになります。

私にはボーイフレンドがおり、名前をニコと言います。ニコは優しく、どこまでも穏やかな若者。何より「私」を愛しています。彼は強迫性障害を患っており、どんな建物の入口の前でも、グルグルと8回回転し、扉の四隅を親指で押さえつけ、立ち幅跳びの要領で、仕切りを踏まないように目一杯ジャンプしないと部屋の中へは入ることができません。

そのため彼は現在休学中で、出会って最初の頃、私はたまらなく病気の理由が知りたいと思ったのですが、彼は答えず、私は次第に理由など何の意味もなさないということを学んでゆきます。とにかくもニコはそうするより他仕様がなかったのです。

ユーリ伯母さんと私に、ニコ。そして、ちょっと胡散気な男、オハラ。オハラはユーリ伯母さんと出会い話をする内に、思いもよらない「ある事」に気付きます。あろうことかオハラは、ユーリ伯母さんが実はロシア最後の皇帝ニコライ二世の四女、アナスタシア皇女ではないかと言い出すのです。

この本を読んでみてください係数 80/100


◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「揚羽蝶が壊れる時」「妊娠カレンダー」「博士の愛した数式」「ブラフマンの埋葬」「海」「ことり」「ホテル・アイリス」「ミーナの行進」他多数

関連記事

『天国までの百マイル 新装版』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『天国までの百マイル 新装版』浅田 次郎 朝日文庫 2021年4月30日第1刷 不

記事を読む

『百年泥』(石井遊佳)_書評という名の読書感想文

『百年泥』石井 遊佳 新潮文庫 2020年8月1日発行 豪雨が続いて百年に一度の洪

記事を読む

『黄色い家』(川上未映子)_書評という名の読書感想文

『黄色い家』川上 未映子 中央公論新社 2023年2月25日初版発行 人はなぜ、金

記事を読む

『この年齢(とし)だった! 』(酒井順子)_書評という名の読書感想文

『この年齢(とし)だった! 』酒井 順子 集英社文庫 2015年8月25日第一刷 中の一編、夭折

記事を読む

『風の歌を聴け』(村上春樹)_書評という名の読書感想文(書評その2)

『風の歌を聴け』(書評その2)村上 春樹 講談社 1979年7月25日第一刷 書評その1はコチラ

記事を読む

『むかしむかしあるところに、死体がありました。』(青柳碧人)_書評という名の読書感想文

『むかしむかしあるところに、死体がありました。』青柳 碧人 双葉社 2019年6月3日第5刷

記事を読む

『ロゴスの市』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『ロゴスの市』乙川 優三郎 徳間書店 2015年11月30日初版 至福の読書時間を約束します。乙川

記事を読む

『岡山女/新装版』(岩井志麻子)_書評という名の読書感想文

『岡山女/新装版』岩井 志麻子 角川ホラー文庫 2022年6月25日改版初版 ここ

記事を読む

『虚談』(京極夏彦)_この現実はすべて虚構だ/書評という名の読書感想文

『虚談』京極 夏彦 角川文庫 2021年10月25日初版 *表紙の画をよく見てくださ

記事を読む

『木になった亜沙』(今村夏子)_圧倒的な疎外感を知れ。

『木になった亜沙』今村 夏子 文藝春秋 2020年4月5日第1刷 誰かに食べさせた

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『揺籠のアディポクル』(市川憂人)_書評という名の読書感想文

『揺籠のアディポクル』市川 憂人 講談社文庫 2024年3月15日

『海神 (わだつみ)』(染井為人)_書評という名の読書感想文

『海神 (わだつみ)』染井 為人 光文社文庫 2024年2月20日

『百年と一日』(柴崎友香)_書評という名の読書感想文

『百年と一日』柴崎 友香 ちくま文庫 2024年3月10日 第1刷発

『燕は戻ってこない』(桐野夏生)_書評という名の読書感想文

『燕は戻ってこない』桐野 夏生 集英社文庫 2024年3月25日 第

『羊は安らかに草を食み』(宇佐美まこと)_書評という名の読書感想文

『羊は安らかに草を食み』宇佐美 まこと 祥伝社文庫 2024年3月2

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑