『この世の喜びよ』(井戸川射子)_書評という名の読書感想文

『この世の喜びよ』井戸川 射子 講談社文庫 2024年10月16日 第1刷発行

第168回芥川賞受賞作

静かな感動が胸に満ちていく、傑作小説集

娘たちが幼い頃、よく一緒に過ごした近所のショッピングセンター。その喪服売り場で働く 「あなた」 は、フードコートの常連の少女と知り合う (「この世の喜びよ」)。少年は、子どもがいない叔父とともに、父子連れのキャンプに参加する (「キャンプ」)。第168回芥川賞を受賞した表題作を含む、傑作小説集。(講談社文庫)

著者の井戸川射子は小説家であると同時に - 否、むしろ小説家より前に 「詩人」 であることを承知しておかなければなりません。加えて、「言葉」 と (特にその) 「使い方」 に強いこだわりを持つ人であることも。

でなければ、(おそらく) こんな小説は書かないだろうし、書いたところでこれほど評価されるとは思えません。普通の人が普通に読むと、どこがよくて芥川賞なんだと。少女の何気にラフな反応は、それほどまでに 「あなた」 の胸に響いたのでしょうか。

「この世の喜び」 は、言葉の使い方がかなり不器用な人の話だ。ショッピングセンターの喪服売り場で働く中年女性とフードコートに入りびたっている少女の交流を 〈あなた〉 という二人称で語る。大人が子どもと友だちになろうとして失敗する話と言ってもいいかもしれない。

〈あなた〉 は穂賀という名字で、二人の娘がいる。上の娘は社会人、下の娘は大学生だ。少女は十五歳。家に帰ると一歳の弟の面倒を見なければならない。二人はおそらく三十歳くらい年齢が離れている。

少女は 〈あなた〉 よりも上手に言葉を使う。たとえば、少女が飲みものをこぼした時、〈あなた〉 が使い古しのタオルをあげて、二人が初めて会話する場面。〈あなた〉 は 〈毎日来てたってつまらないでしょ、何も変わらなくて〉 と話しかける。

〈バレッタの。喪服売り場の、いつもバレッタしてる方の〉 と少女は言う。少女は 〈あなた〉 が誰か認識していた。責められたように感じた 〈あなた〉 が言い訳めいたことを口にすると 〈バレッタ、別にダサくないよ。もう一人はミニスカの人でしょ〉 〈でもミニスカで美脚第一なのかと思えば、運動靴みたいなん履いてるんだよね〉 と続ける。

その前に 〈あなた〉 がミニスカをはいている同僚の加納さんのふるまいを観察しているくだりがある。〈あなた〉 は加納さんのようではありたくない。嫌っているとまでは言えない違和感。〈あなた〉 に寄り添っている語り手と読者だけが知っている気持ちを、少女は何も聞かず数少ない言葉で肯定するのだ。

打ち明けてもいないのに共感してもらえた 〈あなた〉 は、もっと少女と話したくなる。少女は公園で弟を遊ばせる時間に見るものがなさ過ぎてつまらないと愚痴をこぼす。〈あなた〉 も娘たちが小さい時に経験しているはずだけれども、アドバイスを求められても答えられない。〈暇な時にはいつも思い出しているはずの、幼い頃のあの子たちの姿も、誰かに語ろうとすれば飛んでいってしまう〉 から。(解説より)

ここ、けっこうニュアンスが伝わるであろうところなのですが、どうでしょう? 言葉でやりとりをする、できるというスチュエーションこそを 「喜び」 とする、ということでしょうか。〈あなた〉 は実は 「わたし」 で、話は過去と現在を行ったり来たりします。日ごろ読み慣れたものとくらべると段違いに繊細で、いかにも 「詩人が書いた小説」 に感じられます。

この本を読んでみてください係数 80/100

◆井戸川 射子
1987年兵庫県神戸市生まれ。
関西学院大学社会学部卒業。

作品 2018年、第一詩集 『する、されるユートピア』 を私家版にて発行。’19年、同詩集にて第24回中原中也賞を受賞。’21年、『ここはとても速い川』 で第43回野間文芸新人賞受賞。’23年、本書で第168回芥川賞受賞。著書に 『共に明るい』 (講談社)、『する、されるユートピア』 (青土社)、『遠景』 (思潮社) がある。

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