『逃亡』(吉村昭)_書評という名の読書感想文
『逃亡』吉村 昭 文春文庫 2023年12月15日 新装版第3刷
戦争に圧しつぶされた人間の苦悩を描いた傑作

軍用飛行機をバラせ・・・・・・・その男の言葉に若い整備兵は青ざめた。昭和19年、戦況の悪化にともない、切迫した空気の張りつめる霞ヶ浦海軍航空隊で、過酷な日々を送る彼は、見知らぬ男の好意を受け入れたばかりに、飛行機を爆破して脱走するという運命を背負う。戦争に圧しつぶされた人間の苦悩を描き切った傑作。 解説・杉山隆男 (文春文庫)
特に読みたいものがないときの、吉村昭 - 当面私はこれでいこうと思っています。ほんの数冊読んだだけですが、何を読んでもまちがいがない、ということがわかってきました。緻密でリアル、ミステリアスでスリリング。歴史を読むもよし、時代を読むもよし。題材はバラエティに富んでいます。
『逃亡』 は、戦争中、霞ヶ浦航空隊で整備兵だった少年が、軍用機爆破の真犯人であることが露見するのを恐れて脱走し、軍や警察の眼に怯えながら逃亡を続ける、その息詰まる日々を追ったものである。
物語はのっけからミステリアスにはじまる。主人公となる少年の存在を、吉村氏自身とおぼしき 「私」 に告げたのは、密告を思わせる、謎の男からの電話だった。
「私」 は電話の内容について半信半疑でいたが、意外にも少年が実在していることを突きとめ、いまは 〈頭髪のうすれかけた〉 中年男となっている、その元少年の口から、逃亡に至るいきさつや、時には馬車曳きに身をやつしたり、はたまた北海道の奥地で重労働につく人夫に姿を変えたりしながらの逃亡の様子がつまびらかにされていく。
元少年の話を 「私」 は、〈経験した者のみが口にできる〉 ものとして、〈事実であることをかたく信じた〉 が、吉村氏をして小説の執筆へと向かわせたのは、元少年の話に、〈戦争というものの持つ驚くほどの奇怪な姿が露呈されているように思えた〉 からに他ならないだろう。
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元少年が軍用機を爆破して逃亡をつづけていたのは、十九歳のときである。そのとき、「私」 すなわち吉村氏は十七だった。ほぼ同世代である。
〈・・・・・・・もしも私がかれの立場に身を置いていたとしたら、私はかれとほとんど大差のない行動をとったにちがいない。戦時という時間の流れは、停止させることのできぬ巨大な歯車の回転に似た重苦しさがある。十九歳であったかれの行動は、その巨大な歯車にまきこまれた自然の成行きにほかならない。〉
軍隊経験がなくとも戦時という時間を共有し、だからあの重苦しい時間の中で生きるということがどういうことなのか、身をもって体験してきた吉村氏には、ほぼ同世代であった元少年の 〈異常な生き方〉 に 〈強い共感〉 を抱くことができたし、いつのまにか元少年に重ね合わせている自分を感じるようになったのである。
戦争の巨大で得体の知れぬエネルギーに巻きこまれて、逃げるしかなかった元少年が、あのとき十七だった自分であったとしてもおかしくはない。その思いは、まるでこの自分が官憲や周囲のふつうの人々の眼にたじろぎ、凍りつきながら逃避行をつづけていたような 〈錯覚〉 を起こさせる。
それは、元少年を通じて、もう一度あの奇怪な戦争を吉村氏の中に蘇らせ、吉村氏自身もくぐり抜けてきたあの戦時の重苦しい時間を生々しく呼び起こす強烈なものだったに違いない。(解説より)
七十七歳で亡くなった私の父の唯一の自慢は、志願して陸軍に入隊したことでした。終戦間際の二年間、愛知県の渥美半島で訓練に明け暮れ、実戦を一度も経験しないままに除隊したという父は、それでもいかにも誇らしげに語るのでした。
上長に気に入られ、殴るのを手加減されたこと。滞在地近くの民家に風呂をもらいに行くと、家族総出で歓迎されたこと。その家には年ごろの娘がひとりいて、何くれとなく父に世話を焼いてくれたこと・・・・・・・。
入隊中には、つらいことや耐え難いことがきっとあったにちがいありません。なのに、時が経ったからでしょうか、決まって父はいいことばかりを言いました。
この本を読んでみてください係数 85/100

◆吉村 昭 1927年東京・日暮里生まれ。学習院大学中退。2006年没。
作品 1966年 『星への旅』 で太宰治賞を受賞。同年発表の 『戦艦武蔵』 で記録文学に新境地を拓き、同作品や 『関東大震災』などにより、’73年菊池寛賞を受賞。主な作品に 『ふぉん・しいほるとの娘』 (吉川英治文学賞)、『冷い夏、熱い夏』 (毎日芸術賞)、『破獄』 (読売文学賞、芸術選奨文部大臣賞)、『天狗争乱』 (大佛次郎賞) 等がある。
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