『哀原』(古井由吉)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2024/01/12 『哀原』(古井由吉), 作家別(は行), 古井由吉, 書評(あ行)

『哀原』古井 由吉 文芸春秋 1977年11月25日第一刷

原っぱにいたよ、風に吹かれていた、年甲斐もない、と友人はおかしそうに言う。

夢だったのだろうね、と私は毎度なかば相槌のような口調で答える。あの七日間の間、友人はそんな草深い所へは行っていないはずだった。

(友人からの)二度目の電話のあとで私は友人の細君から問合せを受けて、彼が一昨日から家にもどらないこと、肺癌の宣告を受けていて、しかも若いだけに早くも初期段階を過ぎていることを知らされた。

あの男、ひょっとしてほんとうに人を殺して、ひょっとして心中の片割れとなって、うろつきまわっているのではないか、と考えた。友人の妹が十何年か前に男と心中したことからの連想ではあった。

一日おいて、朝早く友人は腑抜けのようになって家に帰り、その日のうちに病院に入れられた。するとまた次の朝早くに女性が私のところへ電話をかけてきて、一週間前から気の触れた彼を付ききりで守っていたところが、

昨日の明け方近く、落ち着いた様子なので自分もつい深く眠り込んだその隙にアパートを抜け出されてしまった、まる一日待ってももどらない、自殺のおそれがある、と涙声で訴えた。

夢なんだろうね、と友人はまた笑う。女のところへ逃げて、また女房のところへ逃げてきた。どちらかを疎んだその分だけ、どちらかへ惹かれる、ということではないんだ。申し開きはできないが、かならずきちんと思い出す、始末をつけるということではなくて責任を負う・・・・。死病の床に就いた男のそんな言葉に、私は思わず目を逸らす。

厄年というのはあるもんだね、とそんなことをつぶやく。一年ほど前から身体がときどき、前触れもなしに、強い悲哀感におそわれるようになった。感情というよりはもっと肉体的な、疼きに近いものだ。

さしあたり、ことさら哀しむべきことは思い当らない。いまさら何を恨むでもない。憂愁というものともまるで違う。

膝頭が声をころして泣いている、みぞおちが嗚咽している、と言えばおかしいだろうか。たとえば向う脛を物に打ちつけて、息をつめて痛みをこらえていると、痛みの奥から全身にひろがってくる、あの泣きたくなるような虚脱感にも似ている。

十歳の時に母親を亡くして、地平の一劃がぽっかり明いてしまい、それから何年かというもの、毎夜床に就く時と寝覚めする時、そこから風の渡ってくるのを肌に感じた。隣の寝床では四つ年下の妹が幼い頃から喘息に傷めつけられた喉を、細い笛のように鳴らして眠っていた。

妹とは死ぬまで郷里や親たちのことを話しはしなかったけれど、或る晩、玄関の狭い三和土に屈んで、買いたてのちょっときつい靴をはきながら、兄さん、家の近くにアイハラというところはなかったかしら、あたし、ついこのまえ、夢の中で、そういう名前の暗い原っぱに行って、ほら、病気のお母さんが寝床から裏の畑へ抜け出したことがあったでしょ、あんなふうにしゃがみこんで泣いていたの、とそうたずねるので、アイハラなんてところは家の近くにあるものか、お前、よっぽど疲れているぞ、気をつけろ、と言ってやると、はい、気をつけます、でもつらいばっかりの夢でもないんです、ここまで来れば後は引き受けてやる、お前はもう一人ではない、と約束してくれる感じなんです、と兄の目をみつめて出て行った。寒空に細い咳をしながら帰っていくのが、道にそって遠くまで聞えた。
・・・・・・・・・
読みたくて(読もうと思って)読んでいるのですから、何がしかの感想はあるわけです。しかし、私ごときに何が書けるんだろうと。小説にある言葉以上に、どう書けばいいかがわかりません。

「アイハラ」という名の原っぱについての妹と兄のやり取りを最後に書きました。何でもないといえば何でもないやり取りなのですが、何かあるかと訊かれれば、そこにすべてがあるような気配がします。

このやり取りの数日後、妹は男と心中し、妹は俺が殺したと、繰り返し兄は言うようになります。

※単行本には「哀原」を含む9編の作品が収められています。

この本を読んでみてください係数 80/100

◆古井 由吉
1937年東京生まれ。
東京大学文学部独文科卒業。同大学院人文科学研究科独語独文学専攻修士課程修了。

作品 「杳子・妻隠」「栖」「槿」「中山坂」「仮往生伝試文」「白髪の唄」他多数

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