『妊娠カレンダー』(小川洋子)_書評という名の読書感想文
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『妊娠カレンダー』(小川洋子), 作家別(あ行), 小川洋子, 書評(な行)
『妊娠カレンダー』小川 洋子 文春文庫 2020年12月20日 第25刷
ここに描かれるのは正気か? 狂気か? 熱狂的読者に支持されてきた第104回芥川賞受賞作

最後の一匙をきれいになめてしまうと、姉は甘えたような潤んだ目でわたしを見ながら
「もう、ないのね」
とつぶやく。
「また明日、作っておくわ」
わたしは無感情にそう答える。 (「妊娠カレンダー」 より)身ごもった姉のために、毒薬の入ったジャムを、今日も私は作りつづける - 。
出産を控えた姉に毒薬の染まったジャムを食べさせる妹・・・・・・・妊娠をきっかけとした心理と生理のゆらぎを描く芥川賞受賞作 「妊娠カレンダー」。謎に包まれた寂しい学生寮の物語 「ドミトリイ」、小学校の給食室に魅せられた男の告白 「夕暮れの給食室と雨のプール」。透きとおった悪夢のようにあざやかな三篇の小説。解説・松村栄子 (文春文庫)
目次
妊娠カレンダー
ドミトリイ
夕暮れの給食室と雨のプール
以下の文章は 「文庫版のあとがき」 より抜粋しています。
相変わらず出不精で、取材に出かけたり、資料を探しに図書館へ出向いたりすることもなく、ずっと家に閉じこもっている。書くことがなくなっても、外へ出かけてゆく元気はない。仕方ないので家の中をウロウロする。目に見えているようで、実は見えていない場所がどこかに隠れていないかと、台所の床板をはぐってみたりする。この作品集の中で書いたグレープフルーツのジャムも、学生寮の屋根裏のはちみつも、給食室のえびフライも、みんなそうやって見つけた。
だから 『妊娠カレンダー』 は自分の経験を書いた作品か? と質問されるたび、がっくりする。わたしの妊娠体験なんて、スーパーで買ってきた新鮮な玉ねぎそのもので、何の書かれるべき要素も含んでいない。その玉ねぎが床下収納庫で人知れず猫の死骸になってゆくところに、初めて小説の真実が存在してくると、わたしは思う。
「玉ねぎが人知れず猫の死骸に・・・云々」 という箇所をどこか不自然に思われた方は、この文章の前に、ここに至る “前振り“ がありますので安心ください。(そこは敢えて書かずにおきました)
で、次に。「解説」 にはこんなことが書いてあります。
生きていることは幸せで死は不幸だと、とりあえずわたしたちは信じているが経験に基づいて知っているわけではない。信じることは簡単だ。事柄よりもそれを教えてくれた媒体を頼りにすることができる。何より素直さがわたしたちの特質だから、信じて従うことはできる。けれど知っているわけではない。薄氷のような信仰を確かめようと足を踏み出せばたちまち水におぼれそうだ。
自分が生きるという、ただそれだけのことに確固たる信念を持ち得ないまま、さらに自ら生命を産み出すということになると、ことはさらに危険になる。自己保存も種の保存も生物の本能だと教わったのに、本能的な行動から徐々にわたしたちは遠ざかりつつある。本能の薄れつつある中で妊娠という原始的状況に翻弄される姉の描写はどこかSF的情景にさえ思えた。
こうした中で、とりあえず姉よりはまともに社会生活を送り、姉をいたわる優しさも素直さも持っている妹が、大量の農薬を塗布されていることを意識しながらグレープフルーツでジャムを作るのは、悪意だろうか。だとしたら、悪意とはいったい何だろうか。(以下略/松村栄子)
※どうです? 著者が書いた 「あとがき」 と松村氏の 「解説」 の一部を読んで、(三篇ともが) どんな小説なのか、おおよそ予想がついたでしょうか。おそらくは、ほんのちょっとも想像できないと思います。ひとつだけ。怖いというより寒気がします。あとは言わずにおきましょう。
この本を読んでみてください係数 85/100

◆小川 洋子
1962年岡山県岡山市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
作品 「揚羽蝶が壊れる時」「博士の愛した数式」「沈黙博物館」「貴婦人Aの蘇生」「ことり」「ホテル・アイリス」「ブラフマンの埋葬」「ミーナの行進」「いつも彼らはどこかに」他多数
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