『イノセント・デイズ』(早見和真)_書評という名の読書感想文
公開日:
:
最終更新日:2025/10/24
『イノセント・デイズ』(早見和真), 作家別(は行), 早見和真, 書評(あ行)
『イノセント・デイズ』早見 和真 新潮文庫 2017年3月1日発行
田中幸乃、30歳。元恋人の家に放火して妻と1歳の双子を殺めた罪で、彼女は死刑を宣告された。凶行の背景に何があったのか。産科医、義姉、中学時代の親友、元恋人の友人、刑務官ら彼女の人生に関わった人々の追想から浮かび上がる世論の虚妄、そしてあまりにも哀しい真実。幼なじみの弁護士たちが再審を求めて奔走するが、彼女は・・・・筆舌に尽くせぬ孤独を描き抜いた慟哭の長編ミステリー。(新潮文庫)
ねぇ、慎ちゃん。お願いだ。せめて手紙だけでも書いてほしい。
自分こそ彼女の正当な理解者だと誇るように、翔は深々と頭を下げた。その姿を慎一は妙に冷静に見下ろした。翔の言葉に感じることはほとんどない。むしろ先ほど抱いた寒々とした気持ちは膨らんでいく一方だ。
自分と翔とでは立っている場所がまったく違う。一緒に山頂を目指していると信じていた仲間が、実はまったく違う山にいた。そう知らされたかのように、慎一は孤独な気持ちを抱かずにはいられなかった。
翔の言葉が勇ましければ勇ましいほど、慎一はしらけた気持ちになります。死刑という前提を当然のように受け入れた人間に話せることは何もない、と慎一は思います。否、彼には、何があってもそれを口にできないある訳がありました。
確たる理由はないのですが、慎一には幸乃がやったとはどうしても思えません。それよりも、何より彼には彼だけが知っている秘密があります。虫さえ殺せなかったかつての幸乃が、あんな凄惨な事件を起こすはずがない。彼女は、たぶんやってはいない、と。(第七章「証拠の信頼性は極めて高く-」より)
幸乃は拘置所でも自分の人生を一切弁解しようとしません。無実を叫ぶこともなければ、錯乱して暴れることもありません。何よりも朝の見回り時、刑の執行を告げられないのを安堵する他の囚人とは違い、むしろ幸乃は、それに対して失望するかの表情を見せます。
静かに運命を受け入れ、自分と向き合いながら日々を過ごすというのとも違う。そうした者たちに共通して見られる罪に対する後悔や、被害者に向けての反省の言葉、宗教への傾倒といったものが幸乃にはない。
誰かを恨むことも、不運を嘆くこともなく、手紙を書くことも、弁護士と面会することも望まない。再審を請求せず、恩赦を求めようともしなかった。彼女はただ裁かれることを望み、その日が来るのをひたすら待ち続けているのだ。
田中幸乃の死刑執行命令が伝えられたのは、東京を十数年ぶりという巨大台風が襲った9月12日のことでした。-「すまないが、君にも連行を頼みたい」その日、女性刑務官の佐渡山瞳は、直属の看守部長から思いもしない命令を受けます。
執行日。9月15日の木曜日。瞳は、あらぬことを考えています。幸乃に対して、瞳は、彼女を救う方法はないのだろうかと。自分にしか救えない方法を私は知っているのではないだろうかと、そんなことを思わずにいられない気持ちになっています。
9時を少し回ったとき、瞳は2人の男性刑務官を伴い、女子の未決囚と幾人かの確定死刑囚がいる南舎房に足を踏み入れます。幸乃はなぜか右手に封筒を持ち、畳の上に正座しています。連行するときは取り乱す者がほとんどなのですが、彼女にそんな気配は微塵もありません。
幸乃はまっすぐ前を見つめています。しかし陽の差さない廊下を無言で歩き、目指す刑場の扉が正面に見えてきたときです。その呼吸がかすかに乱れ始めたことを、瞳は敏感に感じ取ります。
息苦しそうにもだえる幸乃の様子は、あきらかにただ事ではなく、近くにいた看守にすぐに医師を呼ぶように伝え、瞳は幸乃の名前を連呼します。幸乃は懸命に首を横に振り、なんとか口を開こうとするのですが、そのうち目をつぶり、寝息を立て始めます。
彼女は気を失っているのでした。その寝顔はあまりに無防備で、年端のいかない少女のようで、瞳は動揺するのも忘れ、幸乃のか細い身体を抱きしめます。幸乃は幸せそうに眠っています。
「もう大丈夫なの? 」医務室から戻った幸乃に、瞳が声をかけます。「はい。少し寝ていれば治ります。亡くなった母の遺伝なんです。(中略)根性がないから気を失うんだって、よく叱られてましたけど」照れくさそうに、幸乃はそんなことを言います。
このとき瞳の頭に、ある手紙の一文が浮かび上がります。そこには『必ず君をそこから出します』と書いてあります。あなた、本当はやってないの? - この期に及んで、瞳は今更言っても詮無いことを幸乃に向かって問い質そうとしています。
※イノセント【innocent】には、純白な、純潔な、あるいは、無邪気な、という意味があります。そしてさらには、無実な、という意味があります。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆早見 和真
1977年神奈川県横浜市生まれ。
國學院大學文学部中退。
作品 「ひゃくはち」「スリーピング・ブッダ」「東京ドーン」「6 シックス」「ぼくたちの家族」他
関連記事
-
-
『ミート・ザ・ビート』(羽田圭介)_書評という名の読書感想文
『ミート・ザ・ビート』羽田 圭介 文春文庫 2015年9月10日第一刷 東京から電車で約1時間
-
-
『イモータル』(萩耿介)_書評という名の読書感想文
『イモータル』萩 耿介 中公文庫 2014年11月25日初版 インドで消息を絶った兄が残した「智慧
-
-
『悪人』(吉田修一)_書評という名の読書感想文
『悪人』吉田 修一 朝日文庫 2018年7月30日第一刷 福岡市内に暮らす保険外交
-
-
『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』(三國万里子)_書評という名の読書感想文
『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』三國 万里子 新潮文庫 2025年6月1日 発行
-
-
『送り火』(高橋弘希)_書評という名の読書感想文
『送り火』高橋 弘希 文藝春秋 2018年7月25日第一刷 春休み、東京から山間の町に引っ越した中
-
-
『秋山善吉工務店』(中山七里)_書評という名の読書感想文
『秋山善吉工務店』中山 七里 光文社文庫 2019年8月20日初版 父・秋山史親を
-
-
『蟻の棲み家』(望月諒子)_書評という名の読書感想文
『蟻の棲み家』望月 諒子 新潮文庫 2021年11月1日発行 誰にも愛されない女が
-
-
『インビジブル』(坂上泉)_書評という名の読書感想文
『インビジブル』坂上 泉 文春文庫 2023年7月10日第1刷 第23回大藪春彦賞
-
-
『諦めない女』(桂望実)_書評という名の読書感想文
『諦めない女』桂 望実 光文社文庫 2020年10月20日初版 失踪した六歳の少女
-
-
『ジャズをかける店がどうも信用できないのだが・・・・・・。』(姫野 カオルコ)_書評という名の読書感想文
『ジャズをかける店がどうも信用できないのだが・・・・・・。』姫野 カオルコ 徳間文庫 2016年3月

















