『断片的なものの社会学』(岸政彦)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/11
『断片的なものの社会学』(岸政彦), 作家別(か行), 岸政彦, 書評(た行)
『断片的なものの社会学』岸 政彦 朝日出版社 2015年6月10日初版
「この本は何も教えてくれない。ただ深く豊かに惑うだけだ。そしてずっと、黙ってそばにいてくれる。小石や犬のように。私はこの本を必要としている」(星野智幸)
那覇の繁華街からかなり離れた、宜野湾という少し寂しいところで、地元の友人にスナックに連れていってもらったときの話。
静かな住宅街にあるその店に入ると、カウンターの中に若いフィリピン人の女の子がおり、名をマリアといった。彼女はとても「ふくよか」な子で、明るく楽しい、いかにもフィリピン人の女の子という感じだったが、色々と話を聞くうちに、なぜか泣き出してしまった。
もう9年も家に帰ってない。田舎はマニラから遠く離れた小さな島にある。家族はみんなそこにいる。兄弟姉妹が7人もいて、私は一番上なので下の子たちの面倒をみるため日本に来た。最初は川崎のフィリピンパブで働いていた。そして、すぐに常連の男と結婚した。
たまたまその男が沖縄出身で、一緒に沖縄に帰ってきた。沖縄に帰ってすぐ、その男が、仕事をしなくなった。仕方なくマリアはまたホステスとして働き始めた。そしてそれからも、離婚とか、色々なことを経て、今この店にいるのだという。
一番上の弟が大学に進学し、私が学費を稼がないといけない。だから、この店でがんばります。ママさんもいいひとだし。でも、帰りたい。(本当の)ママに会いたい。
その時店のドアが開き、常連のおっちゃんがどやどやと何人か入ってくると、いきなりマリアの大きな乳房をわしづかみにして、「また太ったな! 」と言うと爆笑した。マリアも笑いながらその手をはねのけ、おっちゃんの泡盛のボトルを探しにカウンターの奥へ入った。
これは「出ていくことと帰ること」という章にある文章。後先なくこんな話があり、次に、大阪で日雇いのドカタとして暮らしていた著者の若い頃の話へと移ってゆきます。
ある建築現場でいつも一緒になるおっちゃんの話。昼休み、何となく話を聞いていると、おっちゃんは唐突に、家に帰りたい、と言い出します。帰ったらええやん、もうすぐ終わるで。アホかその家ちゃうわ。生まれた家や。ああそっちの家か。実家か。そうや。
その時おっちゃんは50代後半か、60歳ぐらい。実家へはもう30年以上帰ってないという。唯一、まだ姉の家の電話番号だけは記憶していて、「台風や地震のときはな、大丈夫か、いうて、たまにこっそり電話するんや」。
いまはもう、そのおっちゃんも、生きてるか死んでるかわからないが、たぶん、実家に帰ることは二度となかっただろうと思う。
そして今度は、「那覇で乗ったタクシーの、奄美出身の運転手」の話へと場面を変えます。
ここには、リアルなだけの市井の人たちの話ばかりが収められています。つかみどころがなく、ちょっといい話で感動しようとするとスルッと逃げてしまう。そんな感じがする話ばかりが続きます。
平凡で、普通で、解釈や理解をすり抜けた先にある、何でもない話。ただそこにある、「分析できない」、「無意味な」出来事の一つひとつ。そこに「教訓」などというのはいっさいありません。
しかし、考えてみてください。往々にして人というのは、そんな断片的なシーンに限ってこそよく憶えているもので、それ故、その積み重ねは世界を理解する上での大いなる端緒になりはしないのだろうかと。
私たちは私たちの人生に縛りつけられている。私たちは自分の人生をイチから選ぶことができない。なにかとても理不尽ないきさつによって、ある特定の時代の特定の場所に生まれ、さまざまな「不充分さ」をかかえたこの私というものに閉じこめられて、一生を生きるしかない。
私たちの人生には、欠けているものがたくさんある。私たちは、たいした才能もなく、金持ちでもなく、完全な肉体でもない。このしょうもない自分というものと、死ぬまで付き合っていかなくてはならない。
私たちは、自分たちのこの境遇を、なにかの罰だと、誰かのせいだと、うっかり思ってしまうことがある。しかし言うまでもなく、自分がこの自分に生まれてしまったということは、何の罰でも、誰のせいでもない。それはただ無意味な偶然である。
著者である岸政彦氏は〈誰にも隠されていないが、誰の目にも触れない〉語りは美しいといいます。徹底的に世俗的で、徹底的に孤独で、徹底的に厖大なこのすばらしい語りたちの美しさは、一つひとつの語りが無意味であることによって可能になっているのだと。
この本を読んでみてください係数 85/100
◆岸 政彦
1967年生まれ。
大阪市立大学大学院文学研究科単位取得退学。社会学者。
作品 「同化と他者化 - 戦後沖縄の本土就職者たち」「街の人生」「ビニール傘」など
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