『トリップ』(角田光代)_書評という名の読書感想文

公開日: : 最終更新日:2025/03/19 『トリップ』(角田光代), 作家別(か行), 書評(た行), 角田光代

『トリップ』角田 光代 光文社文庫 2007年2月20日初版

普通の人々が平凡に暮らす東京近郊の街。駆け落ちしそびれた高校生、クスリにはまる日常を送る主婦、パッとしない肉屋に嫁いだ主婦 - 。何となくそこに暮らし続ける何者でもないそれらの人々がみな、日常とはズレた奥底、秘密を抱えている。小さな不幸と小さな幸福を抱きしめながら生きる人々を、透明感のある文体で描く珠玉の連作小説。直木賞作家の真骨頂。(光文社文庫)

どこかそぐわない、という感じ。いるにはいるが、いるという実感には程遠く、なるべくしてなったのは仕方ないにしても、それでチャラかというとそうは問屋が卸さない。思うほどには簡単に始末出来ない人生の - そんな話ばかりが書いてあります。

駆け落ちに失敗した女子高生、薬物中毒の主婦、やさぐれた専業主夫、結婚に倦んだ肉屋の嫁、大学の同級生を追いかけるストーカー、離婚した初老の女、いじめられっ子の少年、ひがみ全開の三十女古書店員、年上の不倫相手が離婚してしまったために結婚せざるを得なくなった若い男、そして・・・・・・・。

『トリップ』 の主人公たちは、誰もが、「似合わないのにそこに居なくちゃいけない」 みたいな人々だ。(中島京子/解説より)

結婚し夫も息子もいる 「あたし」 は、相も変わらずLSDを食べている。現実とそうでないものの境界線が曖昧になると、決まって頭に浮かぶ二つの光景がある。ひとつは 「レストラン四季」。もうひとつは名のない、だだっ広い食堂 - いずれもK大学病院の食堂だ。

二つの食堂の違いは、メニューの値段を挙げれば歴然で、四季のハンバーグセットが1800円に対し、地下食堂のカツ丼は420円。「あたし」 は二ヶ月ほど、ほとんどすべての食事をこの二つの店のどちらかですませていたことがある。

しかし、おいしいと思えるものはひとつもなかった。何を食べても同じ味、レストラン四季も地下食堂も病院のなかに存在している、ということが致命的だった。病院のなかはどこもかしこも同じにおいがし、それは薬と病の混じり合ったにおいだった。

苦甘い、透明度のない、反省を促すようなにおいで、そのにおいは鼻に栓をするみたいにきつく充満していて、臭覚を狂わせ、舌をしびれさせた。

たったひとりで食事をしながらよく考えた。あたしが選ぶことのできるものなんてあるのだろうかと。あれやこれやを選んだつもりにはなっているけれど、(そのどれもが同じ味なら) 何ひとつ選んでいないことと変わりがないのではないかと。

二ヶ月であたしは六キロ太った。七階の個室に入院していた父は、あたしが太ったぶんやせて、それから、あたしを追いかけるように太りはじめ (正確に言えばむくみはじめ)、追い越して太り続けていた。父の病室は、病院内のにおいを五十倍に煮詰めたようなにおいがした。何かが急速に腐りはじめ、何かがその腐敗を止めようとしている、その二つが強烈に混じりあったにおいで、それは細かい雨みたいに、病室のなかのあたしの全身を浸す。

死のにおいだ、とあたしは思った。これが死のにおいだと。そして朝食や夕食にどちらかの食堂にいって、病院のにおいを嗅ぎながら味のしない食品を口にいれ、ゆっくりと咀嚼しながら、あたしは死を食べているのだと思った。死を食べて太り続けている。

そしてこの光景はK大学病院を発端にするすると巻き戻され、中学生だったり小学生だったりする「あたし」を映して、なんだか自分が、あの広い病院で父の死を待つためだけに生まれてきたような、そんな気持ちに 「あたし」 をさせます。何ひとつの可能性も選択権も持たず、ただ誰かの死を待つために生まれ、成長してきたような。(表題作 「トリップ」 より)

この本を読んでみてください係数  85/100

◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。

作品 「空中庭園」「かなたの子」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「笹の舟で海をわたる」「ドラママチ」「それもまたちいさな光」他多数

関連記事

『東京奇譚集』(村上春樹)_書評という名の読書感想文

『東京奇譚集』村上 春樹 新潮社 2005年9月18日発行 「日々移動する腎臓のかたちをした

記事を読む

『ディス・イズ・ザ・デイ』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『ディス・イズ・ザ・デイ』津村 記久子 朝日新聞出版 2018年6月30日第一刷 なんでそんな吐瀉

記事を読む

『つまらない住宅地のすべての家』(津村記久子)_書評という名の読書感想文

『つまらない住宅地のすべての家』津村 記久子 双葉文庫 2024年4月13日 第1刷発行 朝

記事を読む

『知らない女が僕の部屋で死んでいた』(草凪優)_書評という名の読書感想文

『知らない女が僕の部屋で死んでいた』草凪 優 実業之日本社文庫 2020年6月15日初版

記事を読む

『太陽は気を失う』(乙川優三郎)_書評という名の読書感想文

『太陽は気を失う』乙川 優三郎 文芸春秋 2015年7月5日第一刷 人は(多かれ少なかれ)こんな

記事を読む

『本性』(黒木渚)_書評という名の読書感想文

『本性』黒木 渚 講談社文庫 2020年12月15日第1刷 異常度 ★★★★★ 孤

記事を読む

『透明な迷宮』(平野啓一郎)_書評という名の読書感想文

『透明な迷宮』平野 啓一郎 新潮文庫 2017年1月1日発行 深夜のブタペストで監禁された初対面の

記事を読む

『女たちの避難所』(垣谷美雨)_書評という名の読書感想文

『女たちの避難所』垣谷 美雨 新潮文庫 2017年7月1日発行 九死に一生を得た福

記事を読む

『福袋』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『福袋』角田 光代 河出文庫 2010年12月20日初版 私たちはだれも、中身のわ

記事を読む

『学校の青空』(角田光代)_書評という名の読書感想文

『学校の青空』角田 光代 河出文庫 2018年2月20日新装新版初版 いじめ、うわさ、夏休みのお泊

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『天使のにもつ』(いとうみく)_書評という名の読書感想文

『天使のにもつ』いとう みく 双葉文庫 2025年3月15日 第1刷

『救われてんじゃねえよ』(上村裕香)_書評という名の読書感想文

『救われてんじゃねえよ』上村 裕香 新潮社 2025年4月15日 発

『我らが少女A (上下)』 (高村薫)_書評という名の読書感想文

『我らが少女A (上下)』高村 薫 毎日文庫 2025年5月10日

『黒猫亭事件』(横溝正史)_書評という名の読書感想文

『黒猫亭事件』横溝 正史 角川文庫 2024年11月15日 3版発行

『一心同体だった』(山内マリコ)_書評という名の読書感想文

『一心同体だった』山内 マリコ 集英社文庫 2025年4月25日 第

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑