『安岡章太郎 戦争小説集成』(安岡章太郎)_書評という名の読書感想文

『安岡章太郎 戦争小説集成』安岡 章太郎 中公文庫 2018年6月25日初版

満州北部の孫呉に応召した安木加介。この万年二等兵の眼を通して軍隊生活をユーモアを交えて描き出した長篇 「遁走」。「銃」「美しい瞳」「鶏と豪蔵」 ほか短篇五編を含む文庫オリジナル作品集。巻末に開高健との対談 「戦争文学と暴力をめぐって」 を併録する。(中公文庫)

懐かしい名前に、つい買ってしまいました。何十年ぶりかに読んでみようと。

大学生になってしばらくは、「第三の新人」の本ばかり読んでいました。他に何人もの作家がいますが、私にとって「第三の新人」とは、一番に吉行淳之介、二番が遠藤周作、そして、安岡章太郎となります。

作品集の中では、特に「遁走」をこそ読んでもらいたいと思います。戦争小説でありながら、戦闘や殺戮に関わる場面が一切ありません。時にコミカル、主人公である安木加介は、およそ「戦争とは縁遠い」「兵隊にはあまりに不似合いな」人物と言えるでしょう。

加介にかかると、周囲の兵士たちまでもが、どこかしら「間の抜けた」人物であるかのように思えてきます。辛く厳しいだけの軍隊生活のはずが、読むと、加介の滑稽さばかりが目立ちます。

しかしながら、加介にとって戦争とはたしかにそういうものだったのです。厳しい上にも厳しい軍隊の規律が、どこか芝居じみて見えてくる。激しい前線でならいざ知らず、出撃を待ち訓練ばかりに明け暮れる身であるのなら、まして重大な疾患により療養所送りとなった身であるとするなら、誰しもがさもありなんと・・・・・・・

まずは冒頭の文章。

一体いつから、おれはこういうことになってしまったのかと、安木加介は思った。
多分、それは汽車が満鮮国境の鴨緑江をこえたころだったようでもあるが、又まだ朝鮮海峡をわたる前からだったような気もする。どっちにしても、こんなにしょっ中、食欲を感じ、絶えず食物のことばかり考えるようになったのは、東京から孫呉まで、列車の中に閉じこめられた十日ばかりの期間のうちに、胃袋か腸か、あるいはもっと別の何かわかりにくい内臓が、突然これまでとは変った働きをするようになったために違いない。

入営してすぐのこと、加介はすでにこんな思いを抱いています。そして次には -

それは破れたズボンの補ぎ布が配給になった際、与えられたその30センチ平方大の不等辺五角形の端切れをズボンの尻に縫いつけたときのことでした。そのあまりの不格好さを上官から指摘され、かわるがわるに殴られては、おまえはヤル気がないと罵倒されます。

そのときの彼の感想はといえば、

そういわれれば、たしかに加介は自分でも「ヤル気」がないのだと思う、しかし仮にそのヤル気があったところで、イビツな五角形の毛布をどのように処理すれば、厳粛端正な帝国軍人にふさわしい服装に密着させることができるだろうか。

それはむしろ加介が苦心して工夫し、縫いなおせば縫いなおすほど、ますます不体裁にふくらんでしまうばかりなのだ。そして所詮は、半ば運命的に毛布の方から加介の尻に、意固地な女のふかなさけのようにブラ下がってきたものと解釈するより仕方なかった。(P28)

そして加介は、

そのときから、しかし加介は、もはやその布を意に介さなくなりはじめた。はじめのころこそ、その布のおかげで「ヤル気」がないように見えるのだと思っていたが、すでに彼は以前から「ヤル気」をまるで持っていなかったことを、こころの底から自認せざるを得なくなったせいである。「ヤル気」とは何か? それは愛国的情熱にもとづくファイティング・スピリットのようにいわれている。けれども、それはごく表面上の意味にすぎない。実際は、ただの利己的な競争のことである。兵隊たちは、あらゆる点で他人よりも早く、利巧に、自分の有利な立場をきずいておこうとする。それが「ヤル気」である。(P31.32)

早くも、こう達観するのでした。

この本を読んでみてください係数  85/100

◆安岡 章太郎
1920年高知県高知市生まれ。2013年、1月没。92歳。
慶応義塾大学文学部英文学科卒業。

作品 「ガラスの靴」「悪い仲間」「陰気な愉しみ」「海辺の光景」「幕が下りてから」「走れトマホーク」「流離譚」「鏡川」他多数

関連記事

『テティスの逆鱗』(唯川恵)_書評という名の読書感想文

『テティスの逆鱗』唯川 恵 文春文庫 2014年2月10日第一刷 女優・西嶋條子の "売り" は

記事を読む

『夜が暗いとはかぎらない』(寺地はるな)_書評という名の読書感想文

『夜が暗いとはかぎらない』寺地 はるな ポプラ文庫 2021年6月5日第1刷 人助

記事を読む

『けむたい後輩』(柚木麻子)_書評という名の読書感想文

『けむたい後輩』柚木 麻子 幻冬舎文庫 2014年12月5日初版 14歳で作家デビューした過去

記事を読む

『夕映え天使』(浅田次郎)_書評という名の読書感想文

『夕映え天使』浅田 次郎 新潮文庫 2021年12月25日20刷 泣かせの浅田次郎

記事を読む

『逃亡小説集』(吉田修一)_書評という名の読書感想文

『逃亡小説集』吉田 修一 角川文庫 2022年9月25日初版 映画原作 『犯罪小説

記事を読む

『JR品川駅高輪口』(柳美里)_書評という名の読書感想文

『JR品川駅高輪口』柳 美里 河出文庫 2021年2月20日新装版初版 誰か私に、

記事を読む

『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』(山田詠美)_書評という名の読書感想文

『明日死ぬかもしれない自分、そしてあなたたち』山田 詠美 幻冬社 2013年2月25日第一刷

記事を読む

『本と鍵の季節』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『本と鍵の季節』米澤 穂信 集英社 2018年12月20日第一刷 米澤穂信の新刊 『

記事を読む

『王とサーカス』(米澤穂信)_書評という名の読書感想文

『王とサーカス』米澤 穂信 創元推理文庫 2018年8月31日初版 2001年、新聞社を辞めたばか

記事を読む

『64(ロクヨン)』(横山秀夫)_書評という名の読書感想文

『64(ロクヨン)』横山 秀夫 文芸春秋 2012年10月25日第一刷 時代は昭和から平成へ

記事を読む

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

『作家刑事毒島の嘲笑』(中山七里)_書評という名の読書感想文

『作家刑事毒島の嘲笑』中山 七里 幻冬舎文庫 2024年9月5日 初

『バリ山行』(松永K三蔵)_書評という名の読書感想文

『バリ山行』松永K三蔵 講談社 2024年7月25日 第1刷発行

『少女葬』(櫛木理宇)_書評という名の読書感想文

『少女葬』櫛木 理宇 新潮文庫 2024年2月20日 2刷

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』(麻布競馬場)_書評という名の読書感想文

『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』麻布競馬場 集英社文庫 2

『これはただの夏』(燃え殻)_書評という名の読書感想文

『これはただの夏』燃え殻 新潮文庫 2024年9月1日発行 『

→もっと見る

  • 3 にほんブログ村 本ブログ 書評・レビューへ
PAGE TOP ↑