『幾千の夜、昨日の月』(角田光代)_書評という名の読書感想文
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最終更新日:2024/01/14
『幾千の夜、昨日の月』(角田光代), 作家別(か行), 書評(あ行), 角田光代
『幾千の夜、昨日の月』角田 光代 角川文庫 2015年1月25日初版
新聞で文庫の新刊が出ると知って、よく確かめもせずに奥さんに頼んで買ってきてもらったら、小説ではなくエッセイをまとめた本でした。ちょっと残念でもありますが、最近もっぱら小説ばかり読んでいたので、「箸休め」に丁度いいかと思い直して読みました。
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タイトル通り、「夜」をテーマにしたものが集められています。全24編の多くは海外の話、彼女の一人旅の経験談です。心細く不安ばかりが募る、見知らぬ土地の「夜」の気配を、彼女が感じたように読者のみなさんも感じることができると思います。
バンコクの空港から一歩外へ出た時に感じる「むわっとした湿気混じりの熱気と強い埃のにおい」-私も体験したことがありますが、確かに違う国にやって来たと実感する瞬間です。それが暗い夜ならなおのこと、未知の空間へ放り出された不安で一杯になるはずです。
「用無しの夜もある」は、彼女が初めてツァーではなく自由旅行で行ったバンコクを17年ぶりに訪ねる話ですが、女性らしさと、作家らしい思いが詰まった一編です。ご存じの方も多いと思いますが、パッポンというバンコクの有名な歓楽街についての話です。
17年前の若かりし乙女の角田光代はパッポンを「邪悪」と感じ、以後何度バンコクを訪れても行こうとはしない場所でした。開け放たれたドアの奥、カウンターの上で踊るミニスカートの女、店の前でうろつくおそらく自国ではモテない中年男たち、彼女は全てを毛嫌いし拒絶します。
しかし、40歳を過ぎた彼女は、その光景に嫌悪を感じなくなっています。邪悪というよりもっと複雑で、良し悪しや好き嫌いとは無関係に、圧倒的にここに在るが故に認めるべき何か、だと思うのです。ここにあり、自身の内にもあり、あり続けるものだと悟るのです。
理解はするけれど、それでもやっぱり自分には用がない場所、パッポンという場所からしても自分などは用無しで、だから学び損ねた、と結んでいます。
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もうひとつ。全く趣が違う、病院の話。
「魂が旅する夜」は、彼女の両親が入院していた病院ですごす「夜」の話です。角田光代は、病院の夜はどこの夜とも違って「開いている」感じがすると言います。「開いている」のは、人の魂が自由に行き来しているからだと感じているからです。彼女は、人には魂があると信じています。死ぬと体から抜けて、やってきた場所に還るのだと思っています。
病院の夜は眠るための夜ではなく、眠らないための夜です。死にそうな人が死なないことを確認するための、夜です。人が大勢いるのに、無人のような奇妙な静けさや、他の場所では感じない緑色の明かりの安堵感、魂が行き交う感じは病院独特の夜の感じです。
父が亡くなってからほぼ20年後、母が父と同じ病気で同じ病院に入院します。病棟も同じで、足を踏み入れたとき、ああ帰ってきたと彼女は感じます。父が亡くなった高校生の頃とは格段に変わっているはずなのに、夜のなかではあの頃と同じに感じる彼女です。
近しい人がもうすぐいなくなろうとしている間際の、途方に暮れた悲しみにあっても、夜の病院の、この落ち着く感じはなんなんだろう、と彼女は思います。
この感覚は、私にも非常によく分かります。父親が亡くなったのはもう20年以上前のことになるのですが、夜中の12時過ぎに病院から呼び出されて、結局翌日の夜半まで付き添った時の記憶が、そのままそっくり甦るようです。
もうだめだろうと言われた容態が持ち直して、家族や親戚を帰して一人病室に残った私は、することもなくただ父の顔を眺めていたのですが、心は妙に落ち着いていました。私を生んでくれた母は遠い昔、私がまだ3歳の頃にこの世の人ではなくなっていたので、きっと今度は泣くだろうなと思っていたのですが、意外に心は平静そのものでした。
人の生死を分ける病院は、ひととき世間の雑事を忘れさせてくれる場所でもあります。どんな切迫した事情があろうとも、人が死ぬ以上に緊急なことはないのです。その間際に立ち会う人は、物音も途絶えた夜の病院では、平静に戻りなお一心に悲しむのでしょう。
この本を読んでみてください係数 80/100
◆角田 光代
1967年神奈川県横浜市生まれ。
早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。
大学在学中に初めての小説を書く。卒業して1年後に角田光代として発表したテビュー作『幸福な遊戯』で第9回海燕新人文学賞を受賞する。以後、数々の文学賞を受賞している。
作品 「キッドナップ・ツアー」「空中庭園」「対岸の彼女」「紙の月」「八日目の蝉」「ロック母」「ツリーハウス」「かなたの子」「私のなかの彼女「笹の舟で海をわたる」ほか多数
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